[さようならは言わないよ
ばいばいって言うだけ]

おれが発見されたのは、三階最奥部の部屋の一つだった。
ずいぶん昔に建てられた廃ビルの深い闇のなか、不清潔なうちっぱなしのコンクリートの壁に目に痛いほどの赤を塗りたくって力なくもたれかかっていた。

ばたばたばたと、慌ただしい足音に目が覚めて、おれは重たいまぶたをゆっくり開いた。すると目の前には人影がいて、瞬時緊張して見をこらすとアトベさんだった。

よかった、敵じゃない。おれは微弱な警戒心を解いて、無い肩を落とし安堵した。アトベさんの後ろには、どうやら救護隊もいるらしい。ぼんやりとかすんで見える胸元のマークは、赤い十字架をしているように見える。よかった、助けが来た。これでシシドさんの命は助かるかもしれない。おれはそこの床に横になっているシシドさんを目だけで見る。よかった、本当によかった。
アトベさんは信じられないといった目をしておれの体を見ると、逼迫した声で問いつめてきた。
「オオトリ、これは一体どうしたんだ。シシドは意識がないし、お前も、ひどいことになってるじゃないか」
すいません、少し相手が悪くて、しくじってしまったのです。あ、でもおれたち先に行った小隊の任務の遂行には今のところ支障はありません。
そう報告しようとしたが、言葉がつまっておれは激しく咳こんだ。切り裂かれるような激痛の後、ぬるりと気持ち悪いものを大量に吐いて、おれはさらに赤黒く染められる。

アトベさんは無言で後ろに指示を出して、おれにも手当をするよう言っている。
そんなことをしないでください、貴重な薬がもったいないですよ。前線のモルヒネや「向現」がいかに貴重なものか、指揮官のあなたが一番よくわかっているじゃないですか。
おれはきっと助からない。はっきりとそう確信をもてるわけではないけれど、なんとなく、あ、もうだめだという予感がするのだ。
焼けただれた傷が熱をもち、痛みが脈打ち背中を駆け登る。腹に風穴があくと、これほど痛むことをおれは知らなかった。まだ体が燃えているみたいで暑い。肌が、いまだにあの熱風を覚えているのだ。人間は薄い皮にくるまれた柔らかい肉体をもつとてももろい存在だということを、こういう時ばかりは嫌でも痛感させられる。

おれは横たわるシシドさんを見て、なぜか自分たちが訓練施設にいた頃のことを思い出していた。
そんなに昔のことではない。記憶は鮮明で、今でもありありとあの時の自分を思い出せる。
シシドさんはおれよりも年上だったから、彼はおれより先に施設を卒業していった。卒業の日に彼は、自分が入る部隊のこと、いずれは前線に向かうこと、たくさんのことを意気揚々と語ってくれていた。
アトベは俺たちの隊の頭だからな、俺はあいつを命がけで守るぜ。戦いで命を落とす覚悟はもちろんできているけど、俺はいざというときはアトベの盾になって死ぬ覚悟もできている。
と、濡れたように光る瞳を輝かせて語っていた。
おれは、そんな彼を尊敬した。そんなシシドさんの生き方にあこがれた。まっすぐで、力強い意志にあふれる横顔。おれは自分の血の高揚のを感じながら、それをいつまでも見つめていた。

シシドさん、あなたはアトベさんをきっと守ってください。おれは、そんなあなたの背中をきっと守ります。
そう、あの時おれはそう誓っていたのだった。

おれはあのときの誓いをまもれたのだろうか。
おれはシシドさんの背中を、守り抜くことができたのだろうか。
いざというときに盾になる、シシドさんの相方であれただろうか。
心配するおれの目の前でシシドさんのまつげが、ふるえ、ゆっくり開かれた。
彼はしばらく何がおきているのかわからないで、自分は今天国にいるような表情をして体を起こした。やっと自分の命の危機が去ったことを理解すると、はっと目を見開いておれと視線をかち合わせた。
「チョウタロウ!おい、お前無事か」
よかった、あんなに大きな声が出るなら命に別状はなさそうだ。おれは安心して弱く笑った。
すいませんシシドさん、大丈夫じゃないっぽいっす。
おれはそう目で訴えた。伝わったのか、彼はひどく怯えた目をした。歯をいっぱいに食いしばって、必死になにかにたえようとしているが、瞳だけは正直になにかに恐怖していた。
でもよかった。あなたが無事で、本当によかった。シシドさん、あなたはこれからもアトベさんのことを守ってください。この先どんな残酷なことが待ち構えていても、そのまっすぐさを見失わないでください。
おれはあなたのような人と出会えて満足です。あなたの背中を守る盾となれたこと、あなたの隣にいられたことを、とても誇りに思います。あなたに会えて、本当によかった。
彼はひどく苦い顔をするとこぶしをちぎれるほどにぎりしめ、冷たいコンクリートに叩きつけた。骨がきしむ音が聞こえそうなほど、ひどく何度も打ちつけた。
「畜生!なにが国民ゲリラだ、なにがアトベを守るだ。大切な相方一人守れやしないのに、なにが……!」
シシドさんは闇に向かって大声で吠えた。ひび割れて、悲痛な彼の叫びはいつまでもおれの頭蓋のなかにわんと響きわたっていた。

おれは口を開いた。何かを伝えたかった。ありがとう、とか、ごめんなさい、とか、楽しかったです、とか、お元気で、とか、死んでゆくおれを許してください、とか、どうしてそんなに怒っているの、とか、たくさん伝えたいことはあった。
言葉は山ほどある。のどの奥に、悲しいほどつまっている。だけれど、口を開いてもヒューヒューという奇妙な音がもれるだけで、言葉は出てこなかった。
それを残念だとは思ったけれど、おれから声を奪ったあの敵にたいして、怨みはわかなかった。
あの人も必死だったのだ。ガスマスクをしていて顔は見えなかったが、きっと彼もおれと同じ顔をしていた。自分の大切を守るため、自分自身を守るため、決死の覚悟でむかってきていた。それはおれも、同じことだった。


だんだん視界があいまいになってくる。頭がぼーっとして、ふわふわして、魂が体をはなれていくのがよくわかる。

命が消える。
魂が遠のく。
ただ、幸せ。

夜の廃ビルはぞっとするほど死の予感に支配され空気は冷たくどこへ行ってもむせかえるほど火薬の匂いがまとわりつき特に最前線の三階のありさまはひどくて生きようとする意志を嘲笑うかのように炎が肉を焼き鉄が骨を砕き人間のちっぽけさをまざまざと見せつけてきてその中でおれはまさに踏みにじられようとしているのだけれどどうしてかそういった絶大な力にたいしての恐怖みたいなものは感じないでただただ泣きたくなるくらい幸せな気持ちに包まれておれはかすかに涙をこぼしながら最期の力をふりしぼって彼にたいして言葉を伝えようと震える唇をわずかに動かした。


『 ばいばい 』


さようならは言わないよ。



07,11,14:UP

解説