【六話 五分後の時計】
だが、どうして俺の幸福はそう長くつづかないものなのか。
「亮、亮。ちょっとこっちに来いよ」
部活で気持ちよく汗をかいて、家に帰ってきたときのことだった。兄貴は俺のことを押入のなかから手招きした。いつものように平和そうに微笑む兄貴は、片手に分厚い文庫本を持って薄闇のなかに座りこんでいる。そんなところで本を読むから目が悪くなるんだと言いたかったが、いつもは柔和なはずの彼の口調がどこか逼迫しているのである。俺はただならぬ雰囲気を感じ何も言わずほこりっぽい押入の中に、一緒に収まった。と同時に、兄貴が押入の戸を素早く閉める。と同時に、おくの扉が開く気配がした。
シアワセな天国と一転してフシアワセな地獄が牙を剥いてきた。
それはとうとつに始まった。怒鳴り合う声とか、よくわからない破壊音とか、そういう尋常ならざる喧騒が薄い壁ごしに聞こえてきたのである。イタズラ好きの小鬼が祭でもしているような騒乱だった。物音はだんだん大きくなっていく。
「畜生! なんだって、なんだって俺がこんな目にあわねえといけねえんだ!」
いつにも増して大きな声で叫ぶ炎のような父親の罵声。
俺は空気をつんざくような父親の咆哮に身を縮ませ怯える。何があったのだろう。俺の父親はお世辞にも大人しい性格の人とは呼べないし、口喧嘩くらいなら顔をあわせるたびにやっている。しかして今日の父親はみだりに殺気だっていた。
――明らかに、マトモな状態ではない。
俺は息苦しい押入のなか、必死で気配を消して目を強くつむる。
見つかったら。もし、今の父親に俺たちが見つかったりでもしたら。
哀れな息子という生け贄の羊は魔獣たちに八つ裂きにされてしまうだろう。
その光景は残酷な実感と現実感をもって俺に予想された。父親にとって俺たちはまさしく生け贄以外のなんでもない。見つかれば即座にストレス発散にと攻撃してくるだろう。
俺の体は俺の意思と無関係に震えた。そんな俺の背中を、兄貴はやさしくさすってくれる。闇が邪魔でよく見えないが、彼は今でも平和そうに笑っているのだろう。本当に、強いやつだと思う。狭くて暗い穢れた闇がそんな俺たちを頼りなく包んでいる。
両親の声は大声がすぎて醜く割れており、人間の声とはとても思えない。
父が不明瞭な発音で叫んだ。
「俺の生徒を殴ってどこが悪い!」
やけくそになったような、自暴自棄な口調だった。
父は日本語になっていない言葉をぎゃんぎゃんとわめく。鼓膜をひっかくような声で叫びつづける。
「責任をとって担任をやめろだと?はァんッ?ふざけてんじゃねぇよ!あのガキどもめ毎日毎日毎日毎日俺の言うことに反抗してくれちゃってよォ!そのわりには要求は多い!文句ばっかりは達者!PTAもPTAだ!あんだけのことでギャーギャーわめき散らす!保護者も保護者!自分のガキの教育すらままならないのに文句をピーピーほざいてる!ああいう子供を叱らない親がいるから俺だけが苦労すんだ!だから俺がガツンと言ってやったさ!誰もガキどもを叱らない、誰もガキどもを殴らないから、俺がかわりに殴ってやったのさ!そのどこが悪い!その何がいけない!俺の何が悪いってんだッ!」
俺の顔のすぐ前で、ガツンという衝撃音が響く。押入の戸に何かが突き刺さった。まるで俺の位置を知っているかのようなその的確な攻撃に俺は思わずここが押入であることを忘れてのけぞってしまった。ガコン、肘がなにかにぶつかりいびつに反響する。
「・・・あ」
頭から血が、さあっと引いてゆく。しまった。俺が後悔したときにはすでに遅い。父親の咆哮がぴたりとやみ、おそろしい静けさが我が家をうつ。穴が空くほどの殺気が、押入に突き刺さる。
こっちを見ているこっちを見ているこっちを見ているおそろしい父親が血に飢えた魔獣が鋭い爪を研ぎながら舌なめずりをしてこっちを見ている!
「・・・誰かそこにいるのか?」
冷酷な声が闇にとどろく。
ひたり、ひたりと、足音が残酷なほど確実にさし迫っている。逃げなければ逃げなければ逃げなければ死ぬ。だけどどこに逃げるというのだ。人が二人入るのが精一杯な押入に隠れるところなんてない。身を隠す余裕なんてあるわけがない。じゃあどうすればいい。どうすればいいっていうんだ。見つかれば殺される。地獄に引きずりこまれればそこに待ち構えているのは確定された死だ。
俺たちを守っていた闇がばっと破られる。と同時にさらに深く柔らかい闇がばっと俺を覆いかくした。
「・・・晶、そんなところにいたのか」
ぞっとするほどやさしい声音の父。顔は見えないがゆるりと笑っているのがよくわかる。だが呼ばれた名前に俺の名前がはいっていない。
俺ははっと理解する。この押入にあるもので身を隠せるものといったら、唯一布団があったじゃないか。だが、押入から怪しい物音がしたということがばれている今、二人が毛布をかぶって隠れていてもそんなのはなんの抵抗にもならない。
兄貴は、最初っからこの押入のなかに入っていたのは一名だけだったと父親に思わせるつもりなのだ。だがそんなことをすれば兄貴が死んでしまう。だが今の俺にできることは何もない。今俺が父親の前に姿を現したとしても、兄貴が受ける攻撃の量が減るわけでもない。二人が出てくれば二人を殺すまでだと残酷に残虐にそして冷酷に叩きつぶされるだけだ。
「晶、そんなところに隠れていただなんて行儀が悪い。こっちに出てきなさい、今すぐに」
何かが引きずり出される音と同時に、隣にいた体温が遠のく。押入の戸が閉まる音がした。
直後、嫌な音が狭い闇にとどろく。
叫ぶ父親の言葉と同時にその嫌な音は断続的に響いた。
べき、とか、ぐか、とか、そういう感じに聞こえた。
兄貴のうめき声がする。
――暗闇は本当に役立たずである。
俺一人しか父親から隠せないで、それで、俺のせいで兄貴が犠牲になっている。
俺は必死で耳を塞ぐ。
しかしどれだけ強く、潰れそうなほど強く耳を塞いでも、地獄は俺に侵入してくる。
頬を熱い液体が流れる。
塩分が不足したからっぽの涙は、ちっともしょっぱくない。
ごつ。ごつ。ばたん。がす。
畜生。畜生。畜生が。
父の獣のような声。
やめて。とうさん。やめて。
兄貴のガラスをひっかくような声。
どぐ。ご。ぐう。
どれだけの時間が過ぎただろうか。ひとしきりの攻撃がやみ、やっと疲れてくれたのか、兄貴のうめき声が止んでくれた。
父親の獣のような荒い息づかい。それがふすま越しに聞こえてくる。
「・・・手が痛い」
冷徹な声。
「無駄に手が痛いな」
直後、聞き慣れた音がかすかに部屋に響いた。
じじじ・・・じじじじじじじじじ。
なんなのだろう。ひどく大切な、毎日聞いているような。いつも俺のそばにあって、晴れの日も雨の日も、大切に使っていた。
テニスバッグ・・・。
背中がゾクリと粟立つ。畜生。なんてことだ。そんなことって、あるか。俺はさっと顔色を変えて、目の前にできた穴をのぞき込む。その先には、地獄の中で横たわる兄貴と、俺の大切なテニスラケットを掴む父親が仁王立ちしていた。いつも使っている赤いラケットを、父親が。
兄貴を、俺の大切な兄弟を、残酷に、残忍に、恐ろしい破壊力をもって、殴りつけた。
ひときわ大きな音がした。
何かが爆発したのかと思った。
「――――――」
父が壊れたように叫んでいる。というか、確実に壊れている。
修理屋を。
誰か修理屋を呼んでくれ。
俺の父親を修理してくれ。
俺の母さんを修理してくれ。
俺の日常を修理してくれ。
さらに激しさを増す父の攻撃。
弱々しく響く兄貴のうめき声。
どぐら。ばぐ。ぐつ。
父さん。
父さん。
もうやめろよ。
本当に。
憎い。憎い。こんな両親が。こんな最低の両親が。憎くて憎くて仕方がない。
いっそそのテニスラケットで父親の後頭部を叩き割りたかった。だが、俺は攻撃される悲しみはよく知っている。自分の親にそんなまねはしたくはなかった。攻撃されれば哀しい。攻撃されれば哀しい。その哀しみを俺は人一倍理解している。理解しているつもりだ。
俺は声を押し殺して泣いていた。激しい憎悪と殺意から、俺は奥歯が砕けるほど食いしばって泣いていた。
「大人の苦労も知らないでッ!」
父が。
「お前なんてこうしてやる!どうだ!どうだ!どうだ!」
父親が、叫んでいる。
何かが砕ける音がした。
甲高い悲鳴があがり、兄貴のうめき声がぴたりとやんだ。
俺は必死で耳を塞いでいる。
長太郎は今ごろ何をしているのだろう。
+++
泣きながら寝ると、後々目が大変なことになってしまう。目やにが接着剤のように目を縫い合わせてしまい、まぶたが開かなくなってしまうのだ。
俺はべりっべりっとまぶたを強制的に開いて、あたりを確認する。音はもうない。父親の気配も、兄貴のうめき声も、生命の息づかいですら、感じられない闇。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。俺は慎重に押入から這い出る。目の前に横たわる兄貴の姿を確認したとき、息が詰まった。
「兄貴!」
ぼろぞうきんのようになってしまった兄貴を助け起こして、心音を確認する。
「ん? なんだ、亮か」
大丈夫。兄貴はまだ生きていた。何でもないことのように返事をする兄貴の唇には、かすかに笑みが刻まれていた。本当に、強いやつだ。地獄のなかでもなお、平和そうな笑み絶やさないのか。俺は安堵に背中が弛緩した。
「兄貴・・・死んだかと思った」
「ははっ、ぼくは亮が思うほど簡単には死なないよ。だって、亮の兄なんだしな」
兄貴は自分の服をはらって、図書館から借りてきた文庫本、押入の中なんだよね、とか言いながら押入の中に戻っていった。本当に、この本の虫は本を手放すことを知らない。
そのとき、かちりと、俺の視界の端で嫌なものが光を反射した。そのほうを見ると、そこには、血にまみれた俺のテニスラケットがあった。
「・・・」
俺はその両方を手に取る。赤いラケットも、青いラケットも、どちらも一様に兄貴の血を吸って黒く変色していた。人が握りやすく、人が振りやすく改良されたラケット。より速く、より強力に球を返球できるようにと、科学的にも進化した、テニスラケット。これほど使いやすい武器が、この世にあるだろうか。これほど人を殴るのに適したものが、この世にあるのだろうか。少なくとも俺は、これ以上に優れた鈍器を知らない。
憎悪やら、激情やら、罪悪感やら、申し訳なさが、いろいろ胃のなかで渦巻いていて、胃が腐りそうな感覚に吐き気がする。
「・・・ごめん」
俺は兄貴に謝った。
「亮は謝る必要なんてないよ」
「いや、ごめん。俺が悪かったんだ」
誰が兄貴を殴ったとか、殴ってないとか、そういうことは関係ない。俺のラケットが兄貴を傷つけてしまったことは確かな事実で、それにより兄貴が瀕死になったこともまた、事実なのだ。
俺のラケットは、人を傷つけた。
もうこれを使って、球を打てない。そう思えた。
いや、このラケットだけの問題じゃない。きっと俺がラケットを構えるたびに、両親がそうしたことを思い出してしまう。俺が球を打つたびに、兄貴を打つような錯覚に陥るのだろう。それは、このラケットを触れたときに、悟った。俺はもう、まともにテニスはできやしない。
「・・・ごめん」
「いいよ、亮は謝らなくて」
その目つきはどう考えてもふだんの彼らしくないものだった。そこにはなにかギラッとした光を放つ生々しいものがあった。でもそれは一時のことだった。兄貴はその不穏な光をすぐ奥に引っ込め、いつもの和やかな顔つきに戻った。
兄貴は両手を垂れて、ぼうっと突っ立っている。
「ごめんな、亮。これも、亮のためなんだよ。お前を傷つけたくないから。お前を攻撃したくないからなんだよ」
「兄貴?」
「ごめんな、亮」
どうしたのだろう。彼は何を言っているのだろう。いつもの兄貴ではない。俺は不穏な予感に、背中が震えるのを感じた。
「今ならわかるな、母さんがどうしてあの時僕の首に手をかけたのか」
「兄貴、何を言って」
「もうこんな地獄は、終わらせようか」
俺はわけがわからない。何がどうしたのか兄貴に問いかけつづけるが、ぼうっと突っ立っている兄貴は、すでに俺の存在を見ていなかった。俺と同じ深い色の瞳は、俺の姿を映していながら俺のことを認識していない。
「もうこんな地獄は、終わらせよう」
俺はずっと、兄貴は強いやつなのだと思っていた。
こんな地獄のなかでも、平和そうに笑っていられる兄貴はきっと地獄なんて恐くないのだろうと思いこんでいた。
だけどそれは、はなはだしい勘違いだった。
俺は薄ら寒い感覚に背中を震わせた。
「もうこんな地獄は、終わらせよう」
兄貴の瞳が、ぼんやり俺の存在をとらえる。俺と同じ色の瞳には、俺の姿が映っている。困惑と不安から、食い入るように俺のことを見つめている俺が、そこにはいた。
きらり、瞳のはしで何かが鋭利に光を放つ。細い針。学生ならば誰でも必ず一個は持っている、円を描くための針。コンパス。その恐ろしく鋭利な刃先が、ゆらりと動いて、俺の像に突き刺さる。
俺は呼吸を忘れた。
「何するんだ兄貴!」
兄貴が、兄貴が。自分の目玉を抉った。
兄貴が自分の目を。そんな。
どうして。兄貴が。そんな。
これは。
こんなのは。
こんなのはおかしい。
両親が兄貴を傷つけて。
兄貴が自分を傷つけて。
こんなことは。
こんなことはあってはならない。
狂っている。
狂ってる狂ってる全部が全部がみんながみんな狂っているんだ!
「兄貴! あにきッ!」
がたりと倒れた兄貴は、揺すっても呼びかけても叩いても、何も反応をしめしてくれない。彼の全身は、冷や汗をぶわっとかいて、顔色はみるみる青白くなっていく。
俺は慌てて救急車を呼ぶ。救急車が到着するまでの間に、俺はどうにかタオルで止血を試みようとしたが、無理矢理押さえつけようとすると、血ではないどろりとした透明な液が目から出てしまう。俺はそれ以上なにもさわらない方がいいのだと無力に立ちすくんだ。親は寝ている。殴りつかれて深い眠りについている。どうしてこんなことを。俺は頭をかかえてうなだれる。
わからない。どうして兄貴がこんなことをしなければいけないのか、わからない。
そのとき俺は、唐突に救急車を呼んだことを後悔した。
救急車が来てしまえば、兄貴は病院に行くことになるだろう。そうすれば、必然的に医者は彼の全身の傷に気づき、不審に思う。そしてそうなれば、家の虐待が露見するのも時間の問題。
俺たちは両親から引き離され、世間からの憐憫やら冷笑からのがれるために、引っ越しを余儀なくされる。
そうして日常は壊れる。
そうして平穏は壊れる。
だが後悔してもすでに遅く、今更救急車に来なくていいと言ったとしても、意味などない。
俺は兄貴に、大切な日常を壊された。
理不尽な怒りに胃が腐るかと思った。
兄貴の、裏切り者・・・。
+++
そうして俺は途方に暮れている。
練習には、もちろんだが身がはいらない。それはもちろんスッキリしない天候のせいなんかではない。昨日の惨劇がまぶたに焼き付いて、離れないのだ。
血をどうにか落としたラケットを使っているのに、赤いいつものラケットを使っていると、ぶちまけられた兄貴の血を思い出して吐き気がした。代えて、青いラケットを使ってみたが、兄貴の青白い苦痛の表情が視界の裏にこびりついて、離れない。
黄色いテニスボールも、もちろん本気では殴れない。丸いボールを殴るたびに、兄貴の頭を殴っているのでは、という錯覚に襲われて、力がしぼんでいった。
「宍戸さん、大丈夫ですか」
「何が」
俺は休憩時間、ベンチに座って水分補給をしながら長太郎を睨む。もちろんあんまり体を動かせていないので喉など乾いていないのだが、なんとなく、いつもすることだから水分を補給して、いつもすることだからかいてもいない汗を拭った。
「宍戸さん、今日はなんだか・・・顔色が悪いですよ。それに、いつもなら飲みほすドリンクを今日は半分残していますし」
「・・・」
俺は強引に残りのドリンクを嚥下し、ベンチを立った。水の飲み過ぎで気持ちが悪い。
まともに練習なんてできないくせに、練習熱心なふりをして休憩時間の途中で切り上げてコートに入る。
強がったって無駄だ。どんなに見ない振りをしようとしても、ほら、またテニスボールが兄貴に見えるだろう。頭の反対側で、冷静な俺がそうささやく。水分をとりすぎたせいで、胃が気持ち悪い。俺は頭のなかの声など気にせず、反抗するように黄色い球を思いっきり殴りつける。
ぐかっ。
その音に、俺はどきりとした。背中が震える。体がこわばる。頭から血の気が一気に引いて、手がじんと痺れる。俺は思わず、ラケットを取りこぼしてしまった。
ほら見ろ。お前はもう、テニスなんざできないんだ。
冷静な俺のささやきは、頭蓋のなかで反響する。
何度も俺を責め立てて、反響して、離れなくて、苦しくて、苦しくて、悲しくて、悲しくて、ひたすらに無力。
「宍戸さん、どうしたんですか」
心配そうに長太郎は俺をのぞき込んでくる。何でもないと嘘ぶいて、なるべく自然に笑った。うまく笑えたかどうか知らない。だが、彼が複雑そうな顔をしているところを見ると、駄目であったらしい。
どうすればいいんだ。俺はどうしろっていうんだ。時計のズレは、どんなに直そうとしても、いっこうに戻らない。
←