【八話     】


目が覚めたとき、部屋の中は静けさに沈んでいた。持ち上げようとした自分の両手が動かない感覚に、俺はまた自分がイスに縛りつけられたことを虚ろに知った。
部屋はしんとしている。頭が痛く、体中がこりにこって、関節が痛い。今は何時なんだろう。ここはどこだろう。すごく腹が減っていて、胃がキリキリする。
とても、とても静かだった。世界中に俺一人しか生き残っていないような静けさだった。心が凍ったような妙な気分に、俺は思わず口を開いた。
「今は、何時なんだろう」
そう口にした自分の声が乾いていた。醜くかすれて、とても俺のものとは思えなかった。それがとても、恐ろしい。
そのとき遠くで、人の足音が近づくのが聞こえはじめた。
「宍戸さん、起きていますか」
ドアの開く気配。
長太郎、今は何時なんだ、と聞きかけた口を、俺は閉じた。
「宍戸さん、はい、食事です」
長太郎は妙に明るい声で言う。口元に触れる暖かい感触。焼いたパンの香ばしい匂いが鼻を刺激する。それは恐らく、焼きたてのトーストサンドだった。これもまた、長太郎の得意料理の一つだ。
口の中は砂っぽく乾いていた。その上胃袋は激しく痛んできた。激しい空腹に、座っていながら目眩がする。
俺は一瞬、薄く唇を開いて、やめた。どんなに空腹で胃が切り裂けそうでも、食べる気は起きなかった。
「どうしたんですか、食べないんですか宍戸さん」
笑っていながら笑っていない長太郎の声。ああ、ここでもやっぱりあの視線。長太郎らしくない目つき。その奥には、何かギラッとした生々しいものが感じられる。
もはや、隠そうともしない。俺がもう気づいているってこと、わかっているんだろう。
「どうして」
もはや声すら笑っていない。
「どうして、なんでおれのことを無視するんですか」
声は怒りに震えていた。俺は今、  も同然だった。
だが、さがる気はおきなかった。
「どうして、なんで。何で宍戸さん、おれのことをちゃんと見てくれないんですか」
いつもは温厚なはずの長太郎が、優しそうなそれでも怒りを抑えきれていない、そんな恐ろしい声をもらした。
背中がすっと寒くなる。目の前の闇が、ぐっと深くなった気がした。
そのとき、ひたり、と首のあたりに冷たい感触があらわれた。思わず背中が震える。それは優しげに、恐ろしげに、首のあたりに広がってゆく。
冷たい予感が背中を駆け上がる。
次の瞬間。
「かっ・・・は・・・!」
恐ろしい圧力が喉笛を潰してくる。息をしようとやっきになっても、肺に酸素が満ちてこない。頭に血液がのぼり、じんと赤く染まる。頭が破裂しそうに痛い。
次第に思考がぼんやりしてきて、一面の赤がすべてを支配する。逃れたい一心に首を乱暴に振ってみるが、その力からは逃れられない。
やめろ、やめてくれ長太郎。
叫ぶ喉から音は出ない。ぐっ、とか、かっ、とか、そういう頼りない声しか漏れ出てくれない。
それでも俺は叫び続けた。文字通り必死に長太郎の名前を呼んだ。
長太郎、長太郎。やめてくれ長太郎。こんなこと。苦しい。苦しい。長太郎。長太郎。なあ長太郎!
「・・・あは」
彼は、笑いだした。
「あははははは、はははははは! やっと、やっとおれの名前を呼んでくれましたね! あはははははは、はははははははははははは!」
けたたましく笑うその声は、ひび割れていた。見なくてもわかる、長太郎は今、これ以上ないほど恍惚とした表情をしているんだ。
やっと俺の首を絞めていた指がとれて、俺はむさぼるように息をついた。
「かっ・・・はあ・・・はあ・・・はあ・・・」
その衝動で、目を覆っていた布がずれたらしい。右目からすべてが見えた。
ふいに長太郎と目があう。
すると彼の表情は、すうっと青ざめていった。今自分のしでかしたことを、冷静に理解したらしい。
「ほどけ」
気がつけば俺は長太郎を睨め付けていた。
「これをほどけ」
俺はどんなひどい目で見つめていたのだろう。俺を見る長太郎の目は怯えきっていた。面白いほど蒼白で、恐怖のあまり肩は震えることすらできない様子。
彼は何かに操られるように、俺の拘束を解きはじめた。何も言わず、何も反論せず、ただ、俺の言葉のままに拘束を解いていった。
俺が完全に自由になりきると、彼は冷たい床に崩れ落ちた。罪の許しを請うように、ひざまづいているようにも見える。
「ごめんなさい」
蚊の鳴くような、か細い声だった。
「宍戸さん、ごめんなさい。ごめんなさい。こんなこと、どうしておれは。許してください、宍戸さん、許してください」
長太郎は、力なく涙ぐんでいた。目のふちにたまった涙は、揺らめき頬を伝って落ちた。
「・・・」
俺の中心で、何かが爆ぜた。
溶岩が吹き出すような、地獄が氾濫するような、未だかつて感じたことのないほど邪悪な力の発露。俺の全身を緊迫感が満たし、体は嘘のように軽く動いた。
完全に理性は消えていた。
まず最初に長太郎の顔面を横殴りにした。じんと手が震える。
嫌な音がした。聞き覚えがありすぎて吐き気がする。拳で顔を殴ったときの音に違いなかった。
彼は悲鳴もあげず床に転がった。顔が赤く腫れはじめている。自分がどうして殴られているのか理解しているのか、嫌に大人しい表情をしている。
見ていてむしゃくしゃする、というか腹の立つ顔に俺は前蹴りをぶちこんだ。
裏切ったな。
お前は俺を裏切ったな!
何が俺を守りたいだ。何もかも嘘だったじゃねえか。結局は親父と同じで、俺に攻撃をしてくるんじゃねえか。
少なくとも俺は信じていた。お前だけは俺に攻撃しないって、そう信じたかった。だがお前はそれを破った。お前はそれを破ったんだ。俺の信用を裏切って自分本位に攻撃してきたんだ。
面白い。なんだこれは、感情を爆発させることはこんなにも楽しかったのか。今まで何があろうと我慢してきた自分が馬鹿みたいだ。
ぶちまけろ。まき散らせ。切り刻め。今日は地獄の解禁日だ。痛みを教えてやる。リアルな暴力の味を教えてやる。被害者の気分を教えてやる。泣き叫べ、ただ苦しめ、ただ、痛みを感じるがいい。
激情に狂い俺は鬼かなにかになっていた。
ただ、一抹の罪悪感が、俺の喉元を苦しめていた。
俺は手近に転がっていたオルゴールを掴み、投げつけた。硬いものが硬いものにぶつかる音。狙いは外れて箱は左肩を強打し、そのまま床に転がった。耳に気持ち悪い音。恐らく骨が折れる音。俺は舌打ちをした。本当は顔面に当てるつもりだったのに。まだ俺の感覚は鈍ったままらしい。
長太郎は苦悶の表情で何かを叫んでいた。俺はうるさい彼を黙らせようと腹に蹴りをいれた。何度も蹴り込んでやった。容赦は微塵もなかった。血みどろになってやっと長太郎は静かになった。
頭を白い感覚が支配していた。
ひたすらに憎悪。ひたすらに嫌悪。
もうすでに長太郎はぼろぼろだった。何も口をきけないほどまで弱っていた。だけど。

まだ足りない。

これが殺意というものかもしれない。
ふいに自分の姿と父親が重なり、俺は自分の兄貴のことを思い出していた。

――ごめんな、亮。
――これも、亮のためなんだよ。
――お前を傷つけたくないから。
――お前を攻撃したくないからなんだよ。

その通りだよ、兄貴。俺もまったく同じだよ。俺だって、長太郎を攻撃したくないんだ。
だけど、どうしても殴らずにはいられない。ほら、今だってこいつがわずかに咳をしただけで、顔面を踏んづけて息の根を止めたくなってしまう。徹底的に痛めつけて痛めつけて、攻撃して攻撃しないと、気が済まなくなる。俺が受けた痛みをこいつに与えることだけはしたくなかった。それだけはしたくなかった。自分より低い位置へ、痛みをたらい回しにすることだけは、したくなかった。つらい思いをするのは自分で最後がいい。攻撃される哀しみは知っている。だから、もう誰も傷つけたくない。自分の手でなんか、攻撃したくなかった。
「・・・はは」
俺は笑っていた。乾いた声で、ただこらえきれずに。そして泣いていた。
「あはははは」
笑いの渦が俺の体内でとぐろのように巻いていて、次から次へと声になって外に飛び出す。立っていられなくなって、よろよろと目眩がして、俺はイスにしがみついたまま気が狂ったように笑っていた。
「あはははは! はは! あはははははは!」
結局、俺は何をしているんだ。あれほど嫌だと思っていたことを、あれほど理解していた痛みを、嬉々として与えているなんて。可笑しくてしかたない。なんだこれは、なんだこの滑稽な光景は。こんなひどいこと、ここまで長太郎を痛めつけておいて、なお衝動は止まらないなんて。
衝動が胃のなかで黒くとぐろを巻く。マグマのようにグツグツと、不穏な音をたてている。激しい怒りに胃が腐りそうになる。止まらない。まだまだ痛めつけたいなんて、まだまだ壊したいなんて。どうかしている。俺はどうかしている。

ふと、視界の端で何かが光った。鋭利な光。俺が物を投げた拍子にどこかから落ちてきたらしい。床にはひとつ、針の先の鋭利なコンパスが光っていた。
俺はそれを、何気なく手に取った。
よく文房具屋で見かける、青いコンパスだった。あまり使われていないのか、針の先は恐ろしいほど尖っている。
俺は頭に浮かんだ考えにはっとした。肩から力が抜ける。コンパスを握る手に力がはいる。
そうか。そいういうことか。
今やっと、兄貴があの時コンパスを手にした意味が、母親がベランダから飛び降りたわけがわかった。
長太郎は焦点の定まらない瞳を俺の手元に向け、そうしてそのまま目を見開いた。何かを言いたげだった。だけど何も言えない様子だった。何かを恐れていた。ひどく何かを恐れていた。俺はその瞳を、細く見つめた。
最悪をより最悪にしないためには、こうするより他はない。
俺は手元で光るそれをゆっくり振りかぶった。すう、と細く息を吸う。頭の中で、大丈夫と自分につぶやいた。今終わりにする。今すぐ、この最悪を終わらせるんだ。
思いっきり振りかぶった先の鋭利に光るコンパスでそのまま空気を切り裂き闇を切り裂き。
自分の右目に突き刺した。

長太郎に対する攻撃を、自分に向けた。

悲鳴のような声がこだまする。
自分のものなのか、長太郎のものなのか、わからない。
一瞬にして視界がオレンジになり、白くなり、また闇になる。右目は焼けるように痛み、背中はじんと痺れ、あまりの痛みに俺は床にどうと倒れた。
長太郎が急いで駈け寄る音がする。
「宍戸さん、どうしてこんなこと!」
俺はその心配そうな顔を見て、自分の怒りがすうっと波のように引いていくのを感じた。穏やかな感情だけが広がっていて、たぶん俺は微笑んでいた。
「長太郎、お前、動いて大丈夫なのか」
俺がそう聞くと、喋らないで、と彼は言って部屋の外へ道具を取りに行った。長太郎は少しよろめきながらも歩けるらしい。どうやら俺が長いこと動いていなかったことが幸いして、全力の暴力もそんなにひどい怪我を負わせたわけではないのかもしれない。
「宍戸さん、おれ、どうすれば、何をすればいいですか」
戻ってきた長太郎は、情けない声でそう聞いてきた。
「眼球には触るな。清潔なガーゼで目を覆ってくれ。両目もだ。そしてガーゼが落ちないようにその上からタオルを当ててそれを包帯で固定するんだ、できるか?」
「・・・はい」
彼はごくりと唾を飲んだ。俺の手は小刻みに震えている。長太郎の手もまた、震えていた。彼がガーゼを取り出し、両手で、そっとかぶせようとする。右目にガーゼが触れたとき、俺の体はびくんとけいれんした。ゴミが入っても痛いのに、そう思った。
「悪い」
俺の体全体が震え始めていた。
「耐えられそうにない」
長太郎はさらに青ざめた。おろおろうろたえて、今にも泣きそうだった。自分が痛めつけられてときは微塵も涙をこぼさなかったくせに、今は大声で泣き出しそうな顔をしている。
「宍戸さん、おれ、どうすればいいか言ってください」
すがるように、長太郎は言った。俺は震える声で、病院、とだけ言った。彼はうなずき、俺の頭を支えながら脇の下に手を入れて体を支えてきた。俺は長太郎に支えられながら立ち上がった。闇に向かって歩きだす。生き延びるぞ、そう思った。もう俺も傷つかないし、こいつも傷つけない。最悪の連鎖は断ち切った。今ここでようやく、断ち切れた。最悪は過ぎ去って、正常が戻ろうとしている。俺は長太郎に今何時だと聞いた。
「17:46です」
そう言われてから、時計を五分進めた。





[OWARI]