四話【デッドエンドは自分のもの?】
それから宍戸さんは、なぜだかずっと難しい顔をしたままうつむいていた。さっき昼休み終了の予鈴が鳴って、慈郎先輩は『午後の授業はやすむー』と言ってどこかへとふらふら去っていってしまった。たぶん、屋上とか中庭とか、日当たりのいいところに向かったんだろうと思う。
宍戸さんとおれは、もうすぐ授業が始まるので、コートから校舎へとのびる長い木枯らしの並木道を歩いている。彼のイライラとした雰囲気は、とくに静かな並木道によく反響した。誰もいないので、その緊張はわんわんこだまして、おれの耳を手ひどく痛める。
「(怖い。今宍戸さん、すごく機嫌が悪いんだ)」
背中に流れる冷や汗を、秋の枯れた空気がひんやり冷やしてゆく。
紅葉のすぎた並木道が終わると、そこは急に開けて小さな円形の広場になる。そこの中心に、両手を広げて待ち構えるように白い大木がそびえ、その後ろに守られるような形で校舎の小さな裏口がひっそりと口をあけている。
ここは三年の校舎だ。二年の校舎は、ここから右に曲がって少し奥に行ったところにある。おれは宍戸さんに手を振って「それじゃあ、また」と笑おうとした。
彼の双眸が不気味に輝き、ぞっとするほど残酷におれを見ていることに気づいたのは、その時だった。
突然だった。反応するひまはなかった。胸倉を掴まれて、強引にねじり上げられたかと思ったら、恐ろしい力で背中を大木に打ちつけられた。瞬間、衝撃に息がつまる。激しい音とともに、かはっ、と短く息をはく。あまりにも突然のことに、おれは驚きの目で彼を見る。彼はおれを見ない。下を向いたまま、おれをギリギリと白い大木に押しつける。力はゆるまない。腕ははなれない。おれはどうにか抵抗をこころみる。その恐ろしい力から逃れようと、必死にあがく。だが、どうにもこうにも、力が入らない。逃れようと手をかけて、力をいれて、震えて、すべって、また彼の手に手をかける。そのくりかえし。だが、彼の腕は微動だにしない。がっちりとおれの体を、大木にはりつけたままだ。
しまったと、そこでおれは思った。さっき慈郎先輩に血をわけてしまったから、今のおれにはあまり力が残されていないのだ。
「ししど……さん?」
おれは震える声で、必死に彼の名前を呼んだ。
「……ごめん」彼はうつむいたままうめいた。「好きになっちまって、ごめん」
おれは、へ? とまぬけな声をもらした、次の瞬間、その唇はふさがれていた。
強引に押し付けられるようなキスだった。むっ、とくぐもった声をもらすと、彼の舌が突然、するりと侵入してきた。
驚きにびくびく縮こまったおれの舌を、彼は難無くからめ捕り、引きずり出し、鋭利な前歯で、がぶりと噛みついた。
「む……ん!」
くぐもった悲鳴。情けないことに、それがおれのできる唯一の抵抗。宍戸さんは、噛みついた舌にできた傷口から、ぬるりと流れ出す血を、ごくりごくりと飲み下している。ごくり、ごくりと、なんの躊躇もなく。
頭の芯が、じんと痺れる。全身から力が、勢いよく流れ出てゆく。
「(あ、死んじゃうな)」
おれの頭の中の冷静な部分は、そんなことを人事のようにぼんやり考えている。
その時、本鈴が広場にガランゴロンと鳴り響いた。
その音はいつも以上に大音量で、二人の間にこだました。
彼ははっと気がついた顔になり、おれを解放した。
おれは荒く何回も深く呼吸すると、少しむせて咳をくりかえした。そして、自分でも信じられない言葉を口にした。
「な、んで……やめちゃうんですか」
自分でもびっくりした。彼はおれよりさらに驚いてた。彼はきょとんとした顔でおれを見ると、怒鳴るように言った。
「なんでって、当たり前だろうが。ここで、止まんねぇと、マジで長太郎、死んでたぜ」
ていうか、なんで嫌がらねぇんだよ。と、ぼそりと宍戸さんはつぶやいた。
「ごめん、長太郎。でも、どうしても、おさえきれなかった」
彼は自分の短い黒髪をがしがしかいた。
「お前の血が他の誰かの体のなかにも流れているかって思うと、いきなりすっげー頭にきてよ。衝動的に、こんなことに、なっちまった。ごめん……でも、慈郎がお前の血を飲み下しているの見てると、はらわたが煮え繰り返って、頭がおかしくなりそうで、」
彼は、残酷なほど鋭利に地面を睨むと、低く、恐ろしげに、言った。
「他の誰かに渡すくらいなら、いっそ殺してしまいたくなった」
殺してしまいたくなった。その恐ろしい言葉を聞いて、ほころんでいるおれは、一体なんなのだろう。ぼんやりした頭のおれは、はっきりしない口調で言った。
「宍戸さん……おれの血が、欲しいんですか」
彼はうなずいた。ごめん、と何度も何度もつぶやきながら、おれの体をそっと抱きすくめる。熱にうかされたように繰り返すその言葉は、よく聞くと、震えていた。
彼はきっと、おさえきれなかった自分の衝動が恐かったのだろう。本鈴に助けられなければ死んでいたおれを見て、そんな彼は何度も何度も謝っている。
「ごめん、ごめん……好きになっちまって、ごめん。……殺したくなるほど好きになって、ごめん」
と、うわごとのように繰り返している。
おれはそこで、なんのためらいもなく、言った。
「おれのものは、一滴残らず、全部、あなたにあげますよ」
彼は案の定、驚きの表情でおれを見た。
おれはゆるりと、微笑んで言う。
「おれはたとえ、宍戸さんに殺されたとしても、あなたを嫌ったりしませんよ」
「……いいのか、もらって」
「えぇ、もちろん」
おれは笑う。それはたぶん、今までで一番、恍惚と輝く笑顔だったと思う。
「本当に、約束してくれんだな」
彼はゆっくりと、おれを抱く手を強めると、耳元すぐ近く、息がかかる距離で、ささやいた。ぼそぼそと、低く、胸の底までずんと響く、冷たい声。
「俺以外のやつに、お前の血をやるな。……たとえ、一滴たりとも」
それは彼が初めて見せる執着の言葉だった。
「おれの血で、いいんですね」
「あぁ。お前の血がいい。それ以外は、いらねぇ」
「光栄……です」
久しぶりにからっぽになりかけた体は死ぬほど身軽で、とてつもなく自由だった。
自分の、骨の髄から血の一滴まですべては彼のもの。
それは相手が宍戸さんだからこそ、嬉しい。他の誰でもダメ。どんなに大切な人でも、彼の代わりにはなりえない。この世でただ一人、宍戸さんのものだから、ぞくぞくするほど嬉しい。
彼の唇が、やさしく触れてきた。傷口を、彼の舌がゆっくり絡めとる。その舌の、なんと熱いことか。ずぶりずぶりと深い眠りに引き込まれながら、おれはそんなことを考えてる。すでに目は開けていられるような状態じゃない。眠りはどこまでも深く、果てが見えない。
力が流れる。命が消える。
ただ……しあわせ。
人に親切にすることはとても意味があって素晴らしいことなんだろうけど、ただ一人のために、特別に自分の大切を分け合うことは、その何倍も素敵で素晴らしくて、喜ばしいことなのだろう。
おれは深く深く沈みこみながら、そう思った。
HAPPY (DEAD) END
07,10,09:UP
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