鳳長太郎の場合

そこは、ごうごうと強い風が吹き抜ける迷路だった。自分がどこから入ってきたかは覚えていない。ただ、目が覚めたらここにいた、といったかんじでいつのまにかおれはここにいた。上も下も右も左も、つるりとした白い壁に囲まれていた。たぶん、今天地がひっくり返ったとしてもおれは「地震だ!」とくらいにしか思わないだろう。それくらい、上下左右に特徴はなかった。
ここが迷路であるならば、どうにか出口を探さないといけない。そう思ったおれはためしに風の向きを頼りに出口へと向かってみたが、右右左右、左右左左左、たえず向きがせわしなく変わっていて、なかなか一定していない。右右左右左、右右右右左。だんだん腹が立ってきた。馬鹿にされているみたいだ。あんまり無秩序に向きが切り変わるものだから、おれはいつしか風のことを無視して道を進むようになっていた。
さっき、どこかの曲がり角でちらと宍戸さんの背中を見た気がしたのだけれど、彼はいったいどこに行ったのだろう。あっと声をかけたときにはすでに彼の背中は曲がり角に消えて見えなくなっていた。

分かれ道に当たるたびに、適当に道を選んで曲がってゆく。歩いても歩いても、どこも同じつるりとした壁が並んでいるだけでちっとも進んでいる気がしない。だけど、ここを前に通ったことは絶対にない、ということだけには確信がもてた。だって、おれは歩きながら何かを落とて進んでいる感覚があったからだ。それは、まるでヘンゼルとグレーテルが落としていった晩御飯のパンのかけらみたいに心もとないものだけれど、ここにはおれが落としていったものをかじる小動物はなにもいない。安心しておれは少しずつ落としてゆくことができた。一歩ずつ歩くたびに、少しずつかけらを落とすたびに、少しずつ自分が白くなってゆく感覚が気持ち良かった。

それにしても、迷路はまだ終わらないのか。宍戸さんはあれきり気配すらつかめないし、誰かが迷路を歩いている音も聞こえない。ただ、ごうごうと風が右右右左右左に吹いているだけだ。

ん?し…ど…さん、て、誰?
あれ…………あれ?
嘘。嘘嘘嘘。思い出せない。
その人って誰だっけ。
さっきまで、たしかに覚えていたはずなのに。嫌だ、思い出せない。どうしよう、足元に何かを落とすと同時に忘れ去ってしまったのだ。

……ど、せん……い。し…………ょう、さん。…………。………………。

ごめんなさい。ごめんなさい。忘れたくなかったよ。悲しい。悲しい。苦しい。世界が終わるような喪失感が、おれの胸の奥をキリリと痛める。
でもきっとこの気持ちだって、すぐに足跡のそばに落としていくんだ。一歩歩くごとに自分が白くなってゆく。一歩歩くごとに自分が迷路に溶けてゆく。ころりころりと、かけらが自分から転がってゆく。
忘れちゃだめだよって、誰かが耳元でささやいている。思い出してって、誰かが耳元で泣いている。
さようなら。ごめんなさい。思い出せなくてごめんなさい。ごめんなさい、さようなら。きっと自分は迷路のなかに、白く溶けこんで消化される。そして白く、消えていってしまうのだ。

分かれ道を右に曲がってすぐ、また分かれ道が垂直に二つにわかれていた。真っ白になりかけの自分がそこに見たのは、壁にかけられた一枚の大きい鏡だった。頭のてっぺんからつまさきまで、全部をいっぺんに見ることができる。そこに誰かがうつっていた。一瞬誰だかわからなかったが、それは忘れ去られていた自分の姿だった。

思い出した!おれは鳳長太郎だった!!