【羽のはえてのそれからの】
*死ねたちゅーい
宍戸さんが五年間もなんとなく考えていたことが、今、現実になろうとしていた。
彼の願いが叶いそうになって、それが実際に叶ってしまったのは、秋の暮れ、まだ冬と呼ぶにはあたたかい日のことだった。
死んでほしい人が死んだのだ。
宍戸さんはつとめて冷静であろうと振る舞った。彼はそういうことが昔から得意だった。
その死んでほしい人は、宍戸さんの後輩の長太郎を殺した人だった。旅行の雑誌を出版していたらしかったが、旅なんてあまりしたことがなくて興味のない宍戸さんにとっては全然無関係なはずの人だった。一生関わらないはずの人間と、嫌な偶然があって関わってしまったのだった。
長太郎とは中学の頃からの腐れ縁で、お互いが大学生になるとルームシェアといって家賃を割り勘にして一緒に住みだしていた。
長太郎は宍戸さんと同じ大学に通ってはいたが、学部は違うし、校舎の場所も違っていた。通いやすい場所なら捜せばいくらでもあったし、二人ともお金に特別困っているというわけではなかったけれど、だからといってルームシェアをやめるという考えは宍戸さんには毛ほども浮かぶことはなかった。
宍戸さんは長太郎のことを気に入っていた。
とくに食べ方が好きだった。
図体はでかいくせにちびちびと大切そうに、ベランダで育てたルッコラを口に運んでいる姿を見ているのを特に気に入っていた。宍戸さんはさっさと食べ終わってしまう人だから食器を空けろと彼をせかすことはあったけれど、ゆっくり食べるのが好きな長太郎を否定したりはしなかった。明日も明後日もその先も、こうして一緒に昼ご飯が食べられるのだと、宍戸さんは信じて疑っていなかった。
宍戸さんは平常をよそおうのがわりかし得意なほうなので、長太郎の葬式に出席しているときも、長太郎が灰になるときも、誰にも涙を見せないで直立不動でいた。
長太郎がひき逃げされたのを、宍戸さんは目の前で見てしまっていたにも関わらず、弱ったそぶりは誰にも見せなかった。
長太郎を殺したその黒い車の中にいた人陰が、血を流して横たわる長太郎を一瞥したを宍戸さんは見逃さなかった。長太郎が苦しんで助けを求めることもできないくらいに弱っているのを見ていたにも関わらず、その人物の瞳には自分本位な光しか見えなかった。宍戸さんが長太郎に駆け寄る頃にはその車は猛スピードでバックして姿を消していた。宍戸さんはそれを、ただ信じられないといった目で睨むしかなかった。
葬式も終わって、一人で二人の部屋に帰ってゆく宍戸さん。悔しさをにぎりしめすぎた拳のなかに爪が突き刺さって、血が床にしたたり落ちる。すさんだ目をして闇を睨んでいた。得意な掃除を自分のためだけにして、もう長太郎の得意料理だったシチューを食べられない。壁を殴って大声で泣いたとしても、人のいい笑顔を浮かべてなぐさめてくれる後輩はどこにもいなかった。
その犯人はすぐに警察に逮捕され、法律によって正当に裁かれたのだが、ある意味で執念深い性質をもつ宍戸さんはそういった時にただただひたすらに「あいつにとんでもないことがおこってしまえばいい」と願い、それが純粋で強力な呪いとなったのだった。
そして五年後、その人は交通事故にあい骨をバラバラにされ、死んでしまった。
その人が死んだ後も、宍戸さんは「いい気味だ」とは思うことができなかった。
もしも自分があんなことを願ったからあの人が死んだのであれば、自分はあいつと何ら違いがないじゃないか、と思っていたからだ。ひき逃げ犯にだって家族がいて大切な人がいて、必要としている人がいたことを、宍戸さんは忘れなかった。
長太郎がいなくなってから宍戸さんには親しい人が増えた。高等部のときは一度だけ同じクラスになったことのある、長太郎の姉の桜子だった。
桜子は、弟をひいた犯人が亡くなったと聞いて……と言ってなんとなくその頃話し相手を求めたのだった。一見すれば下心のある女の子の言う誘い文句に聞こえなくもないが、桜子は全然そういうつもりはなくてただ弟のことをよく知っている人たちを尋ね歩いているだけだった。彼女にはそういう天然なところがあった。
宍戸さんは桜子を家にあがらせると冷蔵庫の中からビールを取り出した。二人とも静かに、ビールのプルタブを鳴らせた。宍戸さんは長太郎と桜子をあまり似てない姉弟だなと思って見ていたが、桜子がビールに一口だけ口をつけると少しだけ眉をしかめたのを見て、間違いない、姉弟だと驚いた。こういう細かい仕草に、ぎょっとするものが隠れているのだった。
「そういえばここ、長太郎がいた頃から引っ越していないのね」桜子はそう言ってまたビールを飲んだ。「元気してた?」
「ああ」これは嘘。「桜子も元気にやってるか」
「まあね」
桜子は微笑むと、優しげに目を細めた。彼は痛みを隠すのが上手だって弟が言っていたことを、思い出していた。その通りね、と祈るような気持ちで彼女はこたえた。
しばらく二人はお互いの近況を報告しあっていたが、話すべきことをだいたい話し終えると、二人とも黙って外の雨に耳を傾けるだけになった。
「だいぶ雨が激しくなってきたな。外の植木、大丈夫かな」
宍戸さんはふいにそう言った。桜子は飲み干したビール缶から顔をあげると、一瞬驚いた顔になり、そのまま切ない目になって「そうね」とつぶやいた。
長太郎とそっくりな癖、細かいところにすぐ心配するところ、長太郎はそうやってここに生きているのね。そう桜子は思っていた。悲しいけど、いつか私たちも向こう側に、なにも持たずに行くのよ。彼女はそう言いたいのを我慢して、こちら側に残された二人はそうして、静かに雨を聞いきあった。
いつかはみんな、還るべきところに還ってしまう。終わるのがつらくなるほど楽しい時間も、のどをかきむしってしまいたくなるほど悲しいことも。
だけど。
いずれにしても、死者はなにもしてくれない。
宍戸さんが苦しんでいるときに枕元に化けて出ることもなかったし、夢のなかに出てきてなぐさめることもなかった。
それでもどこか、宍戸さんは感じていた。それは視線というにはあまりにも弱くて、存在と呼ぶにはあまりにちっぽけな力しか持たないまなざしが、気がつくときも気がつかないときもいつでも宍戸さんを見ていた。
熱い情も応援もなかったが、ただ透明に、宍戸さんを見て、彼が何か大切なものをこつこつと貯金してゆくのをじっと見ていた。
彼がすべてを憎んで怨んで悲しみに囚われていたときも、部屋の冷たい壁に寄り掛かり壊れたように泣いていたときも、犯人が事故で死んでしまって、彼がすっかりまいってしまったときにも、宍戸さんはいつでも、深いところでおれのまなざしを感じていた。
だから宍戸さん、あなたはいつだってひとりぼっちじゃない。
2008/04/16:UP
←