八話【欠落×ブレーキ】
何かが崩れ落ちるに、俺ははっと我にかえる。
宍戸先輩の肩越し、さらさらと風もなく揺れる髪の合間から、俺が今一番会いたくない人の蒼白な顔が目に映った。
夢から覚めるような気がした。残酷な現実に引き戻されたような気がした。
部室の入り口にたたずみこちらを凝視する宍戸さんは、青白い顔をしたまま何も言わず走り去った。何も言わなかった。
俺は……なんてことをしてしまったんだ。
冷静になった頭が、罪悪感で重くなる。
一瞬でも、俺は宍戸先輩を、第二の宍戸さんにしようとしてしまっていた。
彼を、宍戸さんの代わりにしようとしていた。
俺の好きな宍戸さんはこの世に一人しか存在しないのに、愚かな俺は彼を宍戸さんの代わりにしようとしていたのだ。
罪悪感が爆ぜる音がする。
「……あ……あ……」
自分は、なんて最低な。
俺は頭を抱えて背中を丸める。じゅくじゅくと、脳みその中で質量をもった罪悪感が、自己嫌悪が、充満していく。
つかみどころのない飄々とした雰囲気の先輩は、風のようにいつのまにかいなくなっていた。
たしかに、宍戸先輩は宍戸さんと顔も同じで、声も同じで、性格も同じで、外見だけでなく、内面も恐ろしいほど似ている。うっかり混合してしまうのも仕方がないと思われるだろう。
好きな人に似ている人に、自分の好きな人の像を重ねて見てしまう。それはよくあることなのかもしれないし、仕方のないことなのかもしれない。重ねてしまったとしても、誰も罪に問うたりしない。世間の法律では、裁かれることではない。誰も面と向かってそれは悪いことだと責めるひとはいないだろう。
だけど、この世でただ一人、俺のことを強く責めたてる人がいる。
それは、俺自身だ。
誰がそれを罪に問わないとしても、誰がそれを許そうとも、俺がそのことを許さない。
二人はれっきとした別人なのだ。それを同一視してしまい、代わりにしようとしてしまった俺は、『ワルイコト』をしてしまったのだ。
梅子が以前言った言葉がよみがえる。
「彼がこの世界に存在している。それは私に、生きることへの意味を与えてくれる。どうしてあなたはこの世界に存在しているの、と聞かれて、私は堂々と応えることができるの。彼が好きだから。彼に恋をしているから。彼がこの世界に存在しているから。だから、同じ世界に存在したいと思うし、生きていたいと願うし、そのためならどんな努力も惜しくはないの」
そう、それはそのまま俺の存在意義だった。宍戸さんは白線の外側にはいない。この世界に存在する、唯一無二の存在だ。自分は唯一無二の存在、宍戸さんを好きになることでかろうじて生きる意味を見出してきた。だが、それは瓦解した。俺がおれ自身の手で、崩してしまったのだ。
俺はあの一瞬、たしかになびいたのだ。宍戸さん以外の人を好きになってもいいんじゃないかと、思ってしまったのだ。自分は宍戸さん以外の人を好きになれる。それは俺の存在意義を根底から覆すものだった。それなら、俺は白線の向こうに行ったって構わないのではないか。好きになるのが別に宍戸さん以外の人人でもいいなら、この世界にとどまる理由はもうない。
俺と宍戸さんの関係が瓦解した後も、俺はわずかに残っていた宍戸さんへの未練から、ここにとどまることにした。自分が耐えきれなくなるまで、少しの間だけ、時間稼ぎのように、この世界にとどまることにしたのだ。
だがそれも、もうおしまい。
宍戸さん以外の人を好きになれる自分なんて、死んでしまえばいい。そんな自分なんて、死んでしまえばいいのだ。
俺はふらふらと、何かに誘われるように校外に出た。学校から少し歩いたところには住宅街があった。大きな踏切をはさんで、先には暗い町並みが広がる。死んだように音はなく、動く人影は見あたらない。
俺は青信号のつく踏切の前で立ち止まる。ぼーっと線路のジャリを見つめていると、倦怠感が肩に重くのしかかってきた。
重力に負け、俺は地面にへたりこむ。
それは梅子の姿に似ていた。
投身自殺する、直前の。
+++
部室を探しても、コートを探しても、長太郎の姿はどこにもなかった。
「校舎にいんじゃねぇのか?忘れ物を取りに行ったとか」
未来の俺は、心配ないという風に言う。だが、嫌な予感が拭えない。頭の奥で、心臓の音がこだまする。止まらない。
彼の言うとおり校舎を探してみるという手はある。部室にもコートにも並木道にも長太郎がいないということは、そこにいる可能性が一番高いだろう。校内で他に探す場所はいくらでもあるが、そこにいると考えるのが妥当だ。だが氷帝学園の校舎は東京有数のマンモス校だけあって、無駄に広いつくりになっている。
理由は分からない。だが、長太郎を早く探し出さないといけない気がする。一刻も早く。彼をみつけなければいけない気がする。やみくもに探している場合では――ない。
「お前のあの行動が長太郎を追いつめたとかって、考えられねぇか?」
「は?」
やる気なさげに聞き返す未来の俺。彼の表情には逼迫とか、緊張とか、不安とかいう色がない。
「長太郎は今でもぎりぎりだ。その上、あんなところを俺に見られたら、ショックを受けるんじゃねぇかな。ぼろぼろ状態の長太郎は、帰りまでもたないんじゃねぇか」
「……大丈夫だって。それはお前の心配のしすぎ、考えすぎだろ。ほら、校舎のなか探してみようぜ」
「……」
そうだろうか。本当に、そうなのだろうか。
どくり……どくり……
はちきれんばかりに、心臓が暴れる。おぞましい不安感が体内を充満する。
心臓の警鐘は鳴りやまない。まるで、俺がまた勘違いをおこしていると言いたげに。まるで、俺が何か読み違えていると言いたげに。まるで、俺がなにかはやがってんをおこしているのだと、警告するように。
「……違う」
「は?」
「違う、もう長太郎はこの校内にはいない。もう外に出ちまったんだ!」
……俺は、いつも肝心なところで読み間違えるところがある。いつも一番重要なところを、はやがってんするところがある。長太郎が俺と一緒に帰るまでもつだなんて、気楽な楽観だったのだ。
あぜんとする未来の俺をおきざりにして、俺は駆け出した。長太郎が校外に出てしまったのだとしたら、もはや一刻の猶予もない。
+++
体力はもはや限界だった。部活でくたくたになった体を、やみくもに走らせた後だ。まともに体が言うことをきくわけがない。さっき叫んだせいか、喉も痛い。息がまともにできない。乾いた喉に酸素がぶつかるとひりりと痛む。俺は激しく咳き込む。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。ここで立ち止まったら、俺は一生後悔することになるだろう。たとえ喉がつぶれてもかまわない。たとえ足がつぶれてもかまわない。やっとわかった。自分の本当の気持ちに気付けたのだ。彼と一緒に笑いあえるのなら、彼が俺に笑いかけてくれるなら、彼が俺のそばにいて、呼吸して、ぬくもりを感じて、同じときをすごせるなら、どんな犠牲もいとわないと。
俺はまた激しく咳き込む。口のなかに、赤い味が広がる。体は激しく酸素を欲し、だが喉はそれを拒絶する。酸欠で乳酸漬けになった体はどこかふわふわしていて、足がしっかり地面を蹴っている感触がない。
そんな状態だから、踏み切りの前にたたずむ長太郎を見つけたとき、それは幻覚ではないかとさえ思った。
俺は彼の腕をつかもうと手をのばす。だが、すんでのところで俺と長太郎の間に遮断機がおりて二人を隔離した。
だが、かろうじて長太郎の袖だけはつかめた。それを放さないように、強く握る。しかし強く握ったつもりなのに、手は小刻みに震えていてまともに力がはいらない。
俺は長太郎の名前を呼ぼうと口を開く。だが声が出ない。袖に違和感を感じたか彼は振り返ってくれたのに、声がまったく出ない。
「……放してください、宍戸さん」
俺は首を振る。そしてどうにか長太郎を踏み切りのこちらに連れ戻そうとする。だが、疲れきった俺の力ではどうすることもできない。引っ張っているはずなのに、あらがうことのできない強い力が長太郎を線路の上に線路の上にと引っ張っていく。止まらない。止められない。引っ張っているのに、止められない。止まれと言っても声は届かない。俺の声は届かない。長太郎の体は踏み切りと電車が通過する間の安全な地帯から、電車がその上を通過するであろう完全に危険な地帯に入り込んだ。
遠くから、あの音が近づいてくる。恐ろしいほど確実な速度で、絶対的な死が迫っている。ライトの強い光が、長太郎の半身を白く染める。息がつまる。思考が明滅する。電車のライトがあたりを白く染め上げて、長太郎の体が完全に光に飲み込まれた。
長太郎にブレーキはない。
長太郎の暴走は止まらない。一度走り出したら、二度と止まることはない。
たとえ途中に落とし穴があろうとも、
たとえ途中に谷が横たわっていても、
たとえ道が白線の向こうにつながっていようとも。
07,08,09:UP
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