【狐だけが知っている】
「で、小倉は何か怒らすようなことしたのかよ」
新聞をガサガサ広げている長谷川さんが、渋い声音で聞いてきた。きっと彼は新聞を読んでいるのだろうと、見えはしないが気配でわかる。彼は昨日、盲腸でこの病院に新しく入院してきた中年のおじさんだ。
俺はしばらく黙り込んで首をひねらせていたが、いや、ないと首を振った。こんなひどいことをされるような覚えは、嘘や偏見もなしに何ひとつ思い当たらなかった。
「なにかその子がキレるようなことを言ったり、やったりさたとか」
「いえ、ただ俺は彼女とトランプをしていただけでした。俺は勝負のときはなるだけ喋らないので、彼女を怒らせるような失言は絶対してません」
「負けたから腹が立ったとは考えられねえか?」
「まさか。彼女その時笑っていましたよ、腹を立てていたなんてありえません」
「笑っていたって、内心は穏やかじゃなかったんじゃねえか?」
「いや、それも考えられませんよ。だって、どうして彼女は俺がチケットを持っていたとわかっていたのか、説明がつかないじゃないですか。俺は病院を抜け出して見に行く予定でしたから、チケットのことは誰にも話していませんでした。そしてそれを机の下に貼り付けて隠していたことなんて、誰にも知られていなかった。慎重に隠していましたからそれは確実です。それなのにどうして彼女は……」
長谷川さんは新聞から眼をはなさないで、もっともだとうなずいた。うなずくのが気配でわかる。彼は俺の話にはあまり興味がないらしい。
「まったく不可思議なこったな。知らないはずのチケットを破るだなんて、チケットがひとりでに自分を名乗り出るわけでもあるめえし。で、結局、その試合は見に入れたのかよ」
「いえ、なにせチケットがこんな状態ですから。元がなんであったかわからないくらい細かいチケットじゃ、受付の人もとりあってくれませんでした」
「そうかい、まあ、当たり前か」
「正直、このことを佳になんて言えばいいのかわかりませんよ。だって、甲子園の決勝ですよ? ニュースで佳が逆転ホームランを打って優勝したことは聞いたけど、こんな大事な試合、見に行けなかっただなんてとてもじゃないけど俺の口からは言えません」
俺は悔しさに闇を睨んだ。なにがどうしたらこんな理不尽なことになるのか、納得できない。どうすればチケットは陽子に知られないですんで、どうすれば破られずにすんだか、ただひたすらに思考が頭の中をかけめぐってゆく。
陽子が笑顔でチケットを破ったあの日、彼女にいったいなにがおこったのか、いまだにわからないでいる。しかし、きっとなにかがあったのだ。そうでも考えないと到底説明がつかない。
ズタズタになったチケットが俺の眼の前に舞い広がる映像が、暗いまぶたの裏で悪夢のように繰り返されていた。
+++
変な奴が俺のベッドのまわりをうろついていることに気付いたのは、俺こと小倉大輝がこの病院に移されてだいたい2週間が経った頃だった。
その気配はちょろちょろと俺のベッドの回りを歩いているかと思えば、いつのまにやら居なくなっていたり、いや違う、どこかに行ったのではなくただそこで寝ているだけだったり、転んだり、走ったり、手を叩いたりと、不規則に奔放に自由気ままに動き回り常に俺を悩ませた。
そもそも俺は入院患者なのだ。絶対安静が必要なのに、四六時中精神を逆なでられつづけるだなんて、この仕打ちはあんまりではないか。あまり音をたてていないだけいくらか救いようがあるが、俺は目が見えないぶん、その動きまわる気配が気になって気になって仕方がなかった。暗闇のなかに気配だけが不自然に浮き上がってきて、『見て』いて腹が立ってくるのだ。
俺は先月、高速道路の玉突き事故で負傷し、ここの病院で療養しているところだった。事故があったその日はちょうど、俺が佳の高校の地区予選の決勝戦を見に行こうとして高速バスに乗っているときだった。車30台を巻き込むひどい衝突事故で、俺は全治一ヶ月の怪我を負った。もちろん佳の試合の応援は行けなかった。
あの日から数週間がたち、大方の怪我は治った。しかし怪我はすでに治っているはずなのになぜか目だけがまったく見えないでいた。医者は事故中になにかショックなことを見てしまい、精神的な原因で見えなくなったのだろうと診断し、何か思い当たるものは、と聞いてきたが、俺としては思い当たるものが多過ぎて何も言えなかった。
2週間と3日経った日、俺はついにたまりかねて言った。
「おいお前、いつも俺のまわりをうろちょろして何をしているんだ。誰かの見舞いに来ているなら大人しく座っていろ、そう動き回られるとこっちはイライラするんだよ」
気配ははたと動きを止めて、じいっとこちらを見た。視線が額に刺さって痛い。
しかし、その気配は何も言わないでいた。シカトかよ、と舌打ちしたとき、
『おきにさわりましたか?』
そう、彼女は俺の手の平になぞってきた。少女特有の小さく柔らかい指先だった。しかし少女にしてはばかに丁寧な言葉使いだ。
俺は咳ばらいをする。
「別にうるさくないけど。ただ、あたりをうろうろされると気になってイライラするんだ」
俺は低すぎる声で言ってやった。今の俺はあまり平穏な気分じゃなかったからだ。俺の不穏な空気を読んでか、気配の主ははたと考えこむと、しばらくして手の平に書いてきた。
『どうしてもだめなのですか?』
「何か目的や理由があるのなら文句は言わないけど、お前のはどう考えてもそうとは思えないからな」
『はなせばながくなります』
「手短に頼む」
『わがままなおひと』
はあ、と嘆息する声が聞こえた。どうやらこいつは俺をおちょくっているらしい。だが、どうしたことか気配はしゃべらない。一声たりとも声を発さないのだ。
「お前、もしかして声が出ないのか」
『はい のどをがすでいためてましてね それっきりです』
「お前も患者なのか」
『そうですね きみのせんぱいにあたるのかもしれません』
気配はそう書くと、朗らかに笑った。笑っている顔は見えないが空気を伝って明るい雰囲気がまぶたに触れてきてわかる。どう考えても俺より年上とは思えない手だが、不思議と大人びた雰囲気のある人だった。
「名前、何て言うんだ」
『いちのせようこといいます ようきなことかいて ようことよみます』
それが、俺のチケット破りの犯人一ノ瀬陽子との出会いだった。その後も陽子はことあるごとに転んだり跳ねたり走りまわったりを繰り返して俺を悩ませた。それも、陽子のベッドは俺のとなりなものだから、一時もその気配が止むことはなかった。それを迷惑と感じることは多かったけれど、話せば妙に落ち着いて大人な雰囲気をしているものだから、不思議な人だとか、妙なガキだとは思っていた。
しばらくして検査のがあったが、医師から仮退院の許可はまだでなかった。結局眼はまだ光を感知しないままで、このままでは生活に深刻な支障がでるかもしれないと判断されたからだ。
佳から電話がかかってきたのは、ちょうどそういうときだった。
「大輝!お前さ、今日のニュース見たか、ニュース見たか!?」
「いや、見てないけど。それがどうしたんだよ佳」
久しぶりにする電話の向こうで、佳はかなり興奮した様子だった。あまりに大声で言うものだから電話の音声がひび割れてしまっている。
「オレたちの学校がな、ついに決勝まで勝ち進んだんだよ! なあ、これってうちの学校始まって以来の快挙らしいぜ。オレいまだに信じらんねえんだよ。だって甲子園だぜ甲子園、それももしかしたら優勝日本一だぜ、ついこの前まで甲子園出場が目標だったチームとは、到底思えねえ快挙だろ!」
「それは……すごいな佳。本当にお前はすごいやつだよ!」
俺はいつもなら出さない大声を出してバンザイしていた。病院のなかであることを忘れて、同じ野球児として佳と興奮を分かち合っていた。
佳は中学の頃、俺と同じで田舎のさびれた学校に通って同じ部活をしていた仲だった。その頃から彼は長距離バッターとしての頭角を表していて、卒業後は都会の強豪校に引っ張られてお互い別の道を歩いていた。彼は、あれから三年たって今やチームを引っ張る四番へと見事に成長した。
住む場所も変わって学校も変われば、少しは変わったところもあるかと思ったが、全然こいつは変わっていないことに俺は心底びっくりしている。
他人をぐいぐい前へと引っ張り、オレについてこいと言わんばかりの気迫もなにも、中学のときと変わらずあの頃のままだった。
その後もしばらく、佳は自分の近況についてあれやこれや話しをしてくれた。
今年の監督は最高だとか、バッテリーが気弱で困るとか、一年生にいい逸材がいるだとか、決勝の相手選手の特長、弱点、そしてその攻略法。おいおいそんなことまで俺に教えていいのかと驚いてしまうような機密の作戦まで、彼は惜し気もなく教えてくれた。
俺がもし相手高校のスパイなら佳の学校は絶対負けてたな、と俺は内心ひそかに笑っていた。
「なあ大輝、地区予選見れなかったぶん、決勝戦こそは絶対見に来いよな!」
その光を放つような明るい声に、俺は突然胸が塞がれる気分になった。悪意がないぶんそれはさらに厄介だった。
「……悪い、試合を見には行けない」
「なんでさ」
「お前にはまだ言ってなかったっけ。俺、事故のせいで眼が見えなくなったんだ。それで、まだ退院できないし」
はっ、と電話の向こうで息を飲む声が聞こえた。
「……悪い、オレデリカシーのないこと言って」
「いいさ」
「でも、お前には絶対甲子園の球場に来てほしいんだ。絶対、ラジオで聞くよりそっちのが面白いって。試合をするその場にはさ、ほら、なんつーの、雰囲気とかオーラみたいな眼に見えない興奮みたいなもんがあるじゃんか。ゼッテー聞いてて後悔させるような下手な試合はしねえよ。俺、決勝でも四番やるんだ。俺の三年間の集大成、病院を抜け出してでも聞きに来てくれよ。なあに、ばれたって構いやしないさ、どうせ怪我はあらかた治ったんだろ、なら平気だって。な?」
俺は少し躊躇したが、結局はうなずいていた。こいつの嫌じゃない強引さには、ほとほと勝てる気がしなかった。
チケットは郵送で送られてきた。直接渡しに来るのは、今は試合の調整とかに忙しいから無理だと佳は残念そうに言っていた。当たり前だ、もし佳が直接チケットを渡しに来ていたら、なにこんな大切な時期に病院でのんびりしてんだよって言って病院から蹴り出すところだった。
もちろん病院を抜け出すなんて誰にもばれてはいけないから、俺は慎重にそのチケットをベッドの横にある机の裏に、貼り付けて隠した。
『トランプをしませんか』
「なんで」
『だってひまですもの ねえ ゆびさきでもがらのわかるトランプをこのまえかってきたんですよ それでやってみませんか?』
この日も彼女はいつものように俺の注意を無視して遊びまわっていたが、いつもと違って、彼女は自分から俺に話しかけてきてトランプを誘ってきた。別にトランプは嫌いじゃなかったし、その相手になることにした。
勝ったり、負けたりを繰り返していたが、一勝負すんで計算してみると、俺のほうが少しだけ勝っていた。
「どうだ、俺の勝ちだね」
俺がそう言って彼女の柔らかいくせっ毛をなでると、陽子はそれを認めて頭を下げた。案外、柔らかく空気をたっぷり含んだ髪は触り心地が良いものだった。
『ややあ まけてしまいましたね それではこれでかえることにします そうそう わすれるところでした わたしがまけたのですから これはもらってかえります』
陽子が笑う気配がしたかと思うと、彼女はおもむろにベッドの横の机からチケットを抜き取った。俺はその気配を察知して驚き、あわてて制止した。
「なにをするんだ!俺の大事なチケットだぞ、トランプに勝ったからというならまだしも、負けて持ってゆくなんて理屈にあわないじゃないか!」
だが、俺の手をすりぬけて陽子は返そうとしなかった。
『ですが これがきまりなのですよ』
「そんな決まり聞いたことないよ!」
俺は暗闇の中をやみくもにまさぐり、彼女の手からチケットを取り返そうとした。だが彼女は素敵な笑顔のままでひょいひょい逃げるだけだ。本当に、微塵も悪意のない様子だったことをよく覚えている。
手の平に、文字の感触がにじみでてきた。
『いけませんね トランプでわたしがまけたのですから』
俺はぎょっと眼を見開いた。彼女は俺からはなれたところに立っていて、俺の手の平に手を置いていないのに、感触だけが、ひとりでに沸き上がってくるのだ。
彼女の純粋な笑顔が、空気を伝ってまぶたの闇に触れる。彼女はためらいもせずにチケットに両手をかけ、ズタズタに切り裂いてしまった。
+++
「小倉さん、点滴の時間ですよ」
看護師の安田さんが、大きな口で笑いながら病室に入ってきた。
結局、とうの本人である陽子は昨日退院してしまった。
「小倉さん、テレビのボリュームはなるべく小さくしてくださいね。ここは病院なんですから」
「すいません、この番組が終わるまでは、ちょっと待ってください」
安田さんは笑いながら、しょうがないわねえと大声で言った。テレビではちょうど今年の甲子園のハイライトが流れていた。そして、佳の逆転ホームランはことに大きく取り上げられていた。
「あ、この杉山選手」
安田さんがいきなりくいついてきたものだから驚いた。
「試合のあの活躍ぶりはかっこよかったわよねえ、なにせ逆転ホームランよ? しかも杉山佳選手が放ったホームランボールが当たって、中継カメラが観客席に落ちてきたってね。球場はほぼ満席だったらしいんだけど、幸いカメラが落ちてきたそこの席だけは人がうまっていなかったのよね。もうこれは伝説よ。きっと彼がプロになったら一生このことについてあれやこれや言われるわよ」
「カメラが落ちた!?」
「そうよ、ネジが緩んでいたらしくてね。あら、小倉さん知らなかったの? ニュースはしっかり見なきゃだめよ、せっかくテレビがあるんだから。ねえ長谷川さん」
「そうそう、たしかにそのことが書かれた記事がここにあるぜ」
長谷川さんは新聞をガサガサいわせてページをめくり、その記事を読み聞かせてくれた。
「夏の全国高校野球大会の決勝戦、八回裏バッター杉山佳選手の放った逆転ホームランが中継カメラの一つにぶつかり観客席へと落下するという事故が発生した。甲子園球場は当時満席状態だったが、偶然にも落下地点の席は空席となっていたため怪我人はいなかった。警察は球場関係者から事情を聴取し、現在事故の原因究明を急いでいる。甲子園球場は先月、関西全域を襲った強い地震を経験していたため、その衝撃でカメラを固定するネジがゆるんだのではと専門家は分析している、だそうな。ん? この席って」
長谷川さんはじょりじょりとあごのヒゲをかいて言った。
「お前さんがさっき自分が行くはずだったって言ってた席と、だいぶ近いんじゃないか?」
「……まさか」
俺はさっと青ざめた。しかし、甲子園の決勝戦なんて、チケットを買って出かけない人など、他にいなかっただろう。
「安田さん!」
「こら、小倉さん、病室ではお静かに」
「陽子の、陽子の連絡先とか住所を教えてくれませんか」
「ようこさん?」
「俺のとなりのベッドに寝ていたやつ、一ノ瀬陽子っていって、昨日退院していった、声の出ない女の子」
「となりのベッドに?」
「となりに」
安田さんは困ったようにため息をついた。
「あの、一ノ瀬さんという入院患者さんも、陽子さんという入院患者さんも、私の知る限りおとなりにはいなかったわよ」
「……え? だってこのベッドには、昨日まで」
「嫌ねえ、そっちは壁じゃない」
なんだって? 今なんて言った!? 俺は怒りにまかせて怒鳴りたくなったが、急に腹に力がはいらなくなってそのまま黙り込んだ。眠気が鉛のようにおおいかぶさってきて、まぶたを押し下げている。
「点滴を打っておいたわ。副作用でしばらくしたら眠くなるやつよ」
俺はまぶたを無理に開いた。少し眠気がさめたが、それは一時的なものだった。薬の効果はしんしんとあらわれてくる。眼の前の闇よりも深い闇に、体が沈んでゆくのがわかる。
もしもあの時、俺が彼女にトランプで負けていたなら、俺は今頃どうなっていたのだろう。親友である佳のホームランボールに、殺されていたのではとさえ、もう考えられないほど眠くなっていった。
「陽子」
俺はもつれる舌で言った。
「おまえは」
ついには耐え切れなくなり、俺は夢のない静かな無音の眠りに落ちた。
手の平に彼女の髪の質感だけが残っていた。
あの柔らかく、空気を含んだ……。
…………。
…………。
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【FIN】
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