注意:貧乏下宿生の鳳×女中宍戸
   大山→鳳 一ノ瀬→宍戸



【汚れちまったひだまり】

 銀座から三駅電車に揺られれば、そこにはアタシが勤めてゐる汚い下宿がある。華の銀座のきらめきとは打って変わり、この裏町には鬱々とした排気ガスが四六時中充満してゐた。
 住んでゐるくせに云うのもなんであるが、東京は人が住むのに適した土地ではないと思う。しかしてアタシが東京を離れられないでゐるのは、それなりの理由があるのだけれど、単に此処以外に自分を雇ってくれるところがないだけでもある。女のアタシを住み込みで働かせてくれる親切なところなど、この世間では非常に限られてゐるのだ。


 アタシは車ばかりの大通りから横道にそれると、ほこりくさいお屋敷に入った。此処の下宿は、主に金のない学生などをタダ同然で住まわせてゐるようなところである。なので昼の今の時間帯は、ほとんど人が出払ってゐて、全く音は死んでゐた。
 銀座への買い出しで買ってきた荷物を居間に置くと、アタシは小さな白い紙袋を持ってあの部屋に向かった。


「大山、頼まれてたもの買ってきといた」


 ふすまを開けると、そこには久しぶりに体を起こした大山の姿があった。彼はここ数日、目を醒ましてゐることが全くなかったのだ。懐かしむように窓の外を見てゐる視線をこちらに向けると、彼は穏やかに目を細めた。


「ありがとうございます一ノ瀬さん。あ、薬は机に置いておいてください、後で飲んでおきますから」


 云われた通りに紙袋を、この部屋唯一の家具の上に置いておく。布団を二枚敷くのがやっとであるこの部屋は、彼が寝てゐる麻布団と小さな古い書き物机と、アタシが座るところでいっぱいであった。畳にアタシが座ってしまえば、何人たりとも入れる余地などありはしない。さながら此処は明るい牢獄で、そして彼は鎖のない囚人である。
 アタシが此処に奉公に来たのは三年前と随分昔のことであるのだが、大山が立ち上がってゐるところを、アタシは一度も見たことがない。彼が立ち上がれないほどにまで弱ったのはそれより前のことであるのだと、女将さんは云ってゐた。
 そんな彼が、白い粉を飲んだだけで元気になるのであろうものか。一吹きすれば飛んでしまう薬など、アタシを信用させるには足らなかった。全くもって眉つばものであるのだがしかし、学のないアタシにはどうすれば彼が回復するものかなど、全く知るよしもなかった。
 彼は数日前に酷い発作をおこし、倒れたままずっと目を醒まさないでゐた。もう彼は目を醒まさないのではあるまいか、とまわりは云ってゐたのだが、彼はこうして目を醒まし、体を自力にて起こせるまでに回復した。ただし、彼は倒れる以前よりも、ずっと痩せたように思えてならない。


「何か食べるか。多分お台所に味噌汁があると思うけど」
「いえ、結構です。まだ食べ物が咽を通るほど体力は戻ってゐないのです」
「それでも、何か栄養のあるものを食べておかねェと、治るものも治らねェだろう」
「大丈夫です、心配には及びません。あ、ですが薬を飲むためのお冷を頂けますか」
「わかった。何か食べたくなったら、何時でもアタシに云えよ」


 アタシはふすまを後ろ手に閉めると、静かに嘆息した。彼の容態は、回復したかと思う時もあれば、しかして急に倒れたり、そればかりを繰り返してゐる。アタシは畳が擦り減るほど立ったり座ったり彼の世話をしてゐたが、介抱すれど介抱すれど、一行に功を奏してゐるようには思ほえない。
 アタシは此処、黒河内家の女中を勤めてゐるので下宿生の世話や看病は仕事の内なのであるが、女将さんからは『彼一人に入れこみすぎだ』と云われたことがある。何故なのだろう。病気で弱ってゐる人を放っておけないと思うことは、普通の精神であろうと思う。むしろ周りが彼に対して冷た過ぎるのであるとさえ、アタシには感ぜられた。

 部屋に戻ると、大山はいつの間にか勝手に動いて、机に向かって小説を書いてゐた。アタシは驚きのあまりお冷を取りこぼしそうになった。


「馬鹿!病人はちゃんと寝てゐろ!」
「大丈夫ですって。今日は随分調子がいいのです」
「それでも、いつまた発作が起こるか分からねェだろう。病人は病人らしく布団のなかで寝てゐろ。でないとこっちが迷惑だ」


 子供のように渋る彼を布団に押し込むと、アタシは机の上に投げ出されたままの原稿用紙に目をやった。


「あ、せめて原稿用紙を片付けてから。寝るのはそれからでも」
「いい、寝てろ」


 体を起こしかけた彼を押さえて、アタシはぴしゃりと云ってやった。
 アタシは文字が読めないので偉そうなことは云えないのだが、彼の生活ぶりを見る限り、彼の小説があまり評価を受けていないことは容易に想像がついた。
 それでも、彼の書く小説は彼の下宿仲間からいたく気に入られてゐた。どうやら彼の人柄と同様に、彼の小説もまた人から好かれやすい性分をしてゐるらしかった。


「一ノ瀬さん、どうしたのですか」
「何が」


 紙をまとめてゐるときに、ふいに彼が尋ねてきた。彼は心配そうに目を細める。


「何だか、一ノ瀬さんが落ち込んでゐるように感ぜられまして。何かあったのですか」
「……」


 アタシは原稿用紙を拾う手を止めた。そして、原稿用紙を見て思い出してしまった人物を脳裏から引きはがそうする。ついさっき、買い出しへ出かけようと路地裏を曲がったときに、そこで待ち構えてゐた人のことを思い起こしてゐた。


「覚えてゐるか、二年前にこの下宿を出て行った、お前と物書き仲間だった佐々木のことを」
「はい。あの方にはよくお世話になりましたから」
「今日、そいつから、結婚を申し込まれたんだ」
「え、それはすごい。おめでとうございます」
「……あァ」


 大山はあたかも自分に起きた幸いであるかのように、深く祝福してくれた。アタシはいまいち釈然としない顔をしてゐたため、彼の拍手はすぐに止んでしまった。


「一ノ瀬さんは、その結婚うけるのですか?」
「……」
「またお断りするのですか」
「どうだろう……別にアタシはそいつのこと、嫌いじゃないけど」
「そんなことを云ってゐますと、今度こそお嫁に行きそびれますよ」


 冗談ぽく云うと、彼は茶化すように笑った。
 アタシはずっと、誰かから結婚を求められても跳ね退けてばかりゐた。そんなことをずっと続けてゐたので、最近ではその手の申し出はぱったり止み、とっくにアタシは行き遅れたのだとばかり思ってゐた。だから、自分に未だに貰い手がゐることに、アタシ自身が一番驚いてゐる。
 周りからは冷たい女だとそよがれてゐるアタシにとって、佐々木からの申し出が最後の機会であろうことは、誰の目にも明らかであた。


「アタシは…どうなんだろう」


 佐々木は、特別金持ちというわけではないが、三食の飯を食べるのに困ることがない程度には裕福な者であった。今のアタシの生活から見て、それは願ってもいない好条件なのだが、どうなのだろう。
 彼はアタシの気分を察したか、諭すように云ってきた。


「佐々木さんはいい人ですよ。優しくて、よく気がはたらく人ですし、何より、家族想いな方ですから」
「あァ」


 知ってゐる。だが、アタシの後ろ髪を引くのはそんなことではない。
 アタシは彼の白い顔を、おぼろげに見た。
 こいつは、アタシがゐなくなった後でも、生きてゆけるのだろうか。アタシの代わりにこいつの世話を焼くやつが、本当にしっかり世話をして行ってくれるのであろうか。少なくとも、女将さんや他の女中は、大山に対して随分冷たい。今度アタシの代わりに入るやつが、大山に対して優しいやつであるという保証はどこにもありはしないのだ。
 アタシはこいつのことを、放っておきたくない気がした。何時また酷い発作がおきて、彼が倒れてしまうかわからないのだ。そしてその大山のそばにアタシがゐないのであるかと思うと、急に肩が重苦しくなった。
 大山とアタシは、下宿生と女中という頼りない関係で結ばれてゐる。それはつまり、お互いは無関係であると云うことと何ら大差なかった。
 アタシが何処に嫁ごうが、大山がどんな病気に侵されてゐようが、お互いにあまり関係のないことなのである。
 だが、アタシは佐々木と結婚するのであろうかと考えると、原因不明の罪悪感がアタシの肩を重くした。アタシは別に、咎められることは何もしてゐないのにも関わらずである。


「大山は、どう考えるんだ」
「はい?」
「アタシは、結婚した方がいいのかなァ」


 結婚して子供を産まない女性など、一人前ではないと云うような世の中だ。生涯独身を貫く女など、いい世間の冷笑の的である。
 普通の人ならばこういうとき、もちろんだとも、まさかきみ断るつもりではあるまいね、と戒めるであろう。だがアタシは、彼ならば普通とは違う答えをくれそうに感ぜられた。


「俺は……」


 淋しそうに微笑むと、彼は深い色の瞳を窓の外にほのめかせた。
 ガスのベールを見つめる横顔は、何かを悟ったように静かである。
 命を蝕む汚いひだまりに、彼は何を想ってゐるのであろうか。


「俺は、一ノ瀬さんが幸せだと思う道を歩んでくれれば、それが一番であると思います」


 彼は別段、アタシを引き止めたりはしなかった。ただ遠くで哭いてゐる半鐘の響きを、じっと見つめてゐるだけであった。

 何をすれば良いかなどわからない。どうすれば最善なのか知るよしもない。
 けれども、ただひとつアタシにもわかってゐることと云えば、
この裏町に充満する地獄は、誰かが一人で耐えしのぐには残忍すぎるということだ。

 アタシは答えをもとめるように大山を見る。
 痩せた布団に身を包む彼は、一身に汚いひだまりを浴びている。首もとは細く、以前よりもずいぶん痩せてしまってゐる。彼のお守りが胸元で弱く輝く。光りは段々鈍くなる。地獄に夜が近づいてゐる。大山の薄い唇にはひだまりのなかでもなお、淋しげな微笑が刻まれてゐた。
 その唇を見るたびに、アタシは彼の白い頬を、力一杯殴ってしまいそうになった。彼の悟りきったような微笑みは、アタシに一線を画させてしまいそうで恐かった。相手は弱った病人であると、アタシはわかってゐるのだがしかし、着物の袖を握る手は、ちぎれんばかりに鳴いてゐた。

 彼の口がただ一言「行くな」とでさえ云ってくれれば、アタシはどんなに気が楽になるかわからない。少しでもアタシに執着するそぶりを見せてくれたら、アタシは迷わず話を断ってこれるのに。
 だが彼は、アタシに何も云わないでゐた。ゆったりと東京の空気に殺されて行く大山は、淋しげな笑みを浮かべながら、そっと瞳を細めてゐた。
 そんな彼の胸倉をひっ掴んで、力の限りにぶちのめしたいと、アタシはずっと思ってゐる。だがそれは、決して不愉快な感情からくる衝動ではないように思えてならない。


 アタシはそれを何と云えば良いのか、わからなかった。



07,09,13:UP

+++

おおお、志賀直哉を読んで明治の書生さんとか女中さんとかに突発的に萌えてしまい、猛スピードで書き上げてしまいました。
ノリで書き上げたわりには、ちゃんと内容を書き込むことができた気がする。
気のせいかも(うん、気のせいだ)。

でも、読み返すたびに「『い』が『ゐ』になってないし!」ていう箇所を見つけたりするのは大変だった。
使い慣れていない言葉を使うのはむつかしい。

そして、さっきUPする直前に読み返してみても「『い』が『ゐ』になってないし!」があった。

そしてもう一回くらい読み返してみたら、あるんだろうなー、
「『い』が『ゐ』になってない」。ちーん。
「『言』が『云』になってない」。ちーん。
「宍戸さんが宍戸さんぢゃない」。ぼーん。


宍戸さんの一人称は本当に悩んだ。
だって、宍戸さんは女になっても、
「俺」とか言いそうだし、
「どらぁ!」とか叫びそうだし、
「見たかぁっ!」とか挑発しそうだし。

でも、明治にはいないだろうなー、「俺」とか言う女の人は。
現実的に考えて「アタシ」にしたけど。

なんか…どうなんだろう。
女々しくなりすぎなような気がする。


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