耳に溢れるのは、
雑音の洪水だった。
おそるおそる目を開けて、俺の最初に見た光景は、俺が最も恐れていた、悲しい光景だった。
嘘だろ?俺は激しいめまいを感じた。
世界がグラグラ揺れて、上と下があべこべに混ざりあう。
現実と空想の境目も揺らぎそうで、
いっそこんな現実、空想になってしまえと心の中で念じ続けた。
だが、いくら願っても、目の前の非現実な現実が揺らぐことはなかった。
愛しい人が、
額に、
首に、
全身に、
鮮烈なまでに赤い血を流し、
俺の上に覆いかぶさっている。
何これ何これ?なんの冗談?
俺はぽかんと口を開いた。
こんな冗談、笑えないよ?
面白くないよ?
楽しくないよ?
やめてよこんな悪ふざけ、
嘘だと言ってよ。
こんな……こんな酷い現実、
嘘だと言ってよ。
あまりに突然の出来事に、頭が考えることを放棄してる。
目の前の光景を、理解しまいとしてる。
「長……太郎」
「宍戸さん?」
俺は思わず目の前の先輩の存在を疑った。
この人は、本当に俺の先輩?
いつも、キツイことばかり言ってくる、根は優しいんだけどその優しさは分かりにくい、俺の勝ち気で強気な先輩?
こんな、悲しそうで、弱々しい姿をしている、この人は本当に、宍戸さん?
「ちょう……たろ」
「ししどさん?」
誰ですか?
あなたはだれですか?
ししどさんによくにた、
ししどさんにそっくりな、
あなたはいったいだれですか?
ぼーっと呆けている俺を見て、血にまみれたその人は、震える手を差しのべた。
ぬらぬらと血で光る手が怖い。
そして、まるで子供をあやすように、俺の頭をなでた。
その時、俺は唐突に理解した。
それは紛れもなく…
俺の愛しい先輩の、
細く、
しなやかで、
それでいて力強い、
大好きなてのひらだった。
それを理解したとき、目にぶわっと涙が溢れてきた。
目の前の光景が、リアルな実感をともなって俺に迫ってくる。
カチカチと鳴る噛み合わない奥歯。
全身が粟立つ。
激しい恐怖で、体の震えが止まらない。
「…ゴメ、ン……な」
「し、宍戸さん!」
「いつ…までも、いっ、しょに、い、たかった……けどよ。どうや、ら…こ、こで、おわかれ……だ。」
「そんな…そんなこと、言わないでくださいよ!」
苦しそうに、荒い、息使い。
俺は力一杯宍戸さんを揺する。
首を横に振り、行かないでと目で訴える。
宍戸さんは何も言わない。
辛そうな顔をするだけ。
それは無理だ、と言われたような気がした。
その反応に視界がぼやける。
前が見えない。
こんな現実、認めたくなかった。
今までの思い出が…鮮やかによみがえる。
なんでこういう時に思い出すことは、楽しい思い出ばかりなんだろう。
思い出すだけ、辛いのに……。
今日は昨日の繰り返しだと思ってた。
この日常が終わる日は、今日じゃないと思ってた。
どこにもそんな保証はないのに、
どこにもそんな保証はないのに、
それを信じて疑わなかった。
「いまま、で…つらい、こ、とばかり……いっ……てわる、かったな」
「もうやめて!何も話さないで!宍戸さんのお別れの言葉なんて、聞きたくなんかない!!」
「……あまった、れた…こ、というんじゃ……ねぇ、ぜ」
俺の肩は、何かにおびえて震えてた。宍戸さんは、俺の肩を掴むと……ニッと笑った。
笑っていた。
血の気の失せた、青白い唇がやけに印象的で、怖かった。
「そんな、か、お…してんじゃ、ねー…よ」
宍戸さんは俺に笑いかけると、ウッと息をつまらせて、苦しそうに咳をした。
ピッ
生暖かい液体が、俺の頬にはねる。
それがたまらなく怖い。
怖くて怖くて、俺は宍戸さんをきつく、きつく、抱き締める。
宍戸さんは、なだめるように俺の背中をよしよしとなでた。
が、
やがて、
その手は力なく、
ぽとり、と
背中から離れた。
それっきり、宍戸さんは動かなくなった。
どんなにゆすっても、
名前を呼んでも、
叫んでも、
叩いても、
罵倒しても、
涙を落としても、
どんなに頼んでも、
再び目を開けることはなかった。
呼吸ができなくなるほどの悲しみが胸を突き上げる。
内臓をえぐり出されるような痛みが胸を支配する。
世界が絶望色に染まる。
何かがプツンと切れたように、俺は大声で泣き叫んだ。
声をからして悲しみを叫んだ。
ぐしゃぐしゃになった車の下、暗い暗い恐怖が充満する世界で、
俺は一人取り残された。
+++
同じ救急車に乗せられ、病院に向かう途中、宍戸さんは死んだ。
俺はというと、制服は血まみれなのに、なぜかカスリ傷一つ負ってなかった。
これは全部…宍戸さんの流した血。
目に痛いほどの刺激。おびたたしい赤が、宍戸さんの怪我の酷さ、事故のすさまじさを物語っている。
痛みのない体は、まるでふわふわと夢でも見ているようで、
病院の壁に寄りかかっている間、
目が覚めないかと思ってずっと頬をつねってた。
だが、頬の痛みは、残酷に現実のありかを指差す。
ここ
どうしよもなく、俺の現実は目の前にふてぶてしく存在していた。
こんな現実、認めたくなかった。
だが俺が認めようが認めまいが、関係なく現実はここにあった。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だよ嫌だよ嫌だよ嫌だよ助けて助けて助けて助けて助けてこんな現実は嫌だこんな現実は嫌だこんな現実は嫌だどうせなら俺が死んでいればあの時ひかれたのが宍戸さんじゃなくて俺だったらあのとき死んでいたのが俺だったら変えたい変えたい過去を変えたい過去を変えたい過去を変えたい過去をやり直したいやり直したい…………。
こんな現実、やり直したい
俺は愛しい人を奪ったこの世界を、現実を、呪った
……その時、突然……。
ぞわっ、と血液が皮膚が、筋肉が内臓が――震え、うめき、軋みをあげて蠕動した。
うっと息がつまる。
心臓が不気味に脈打つ。
体がガクガク震え、
強烈な寒気と猛烈な熱さ、
二つに同時に襲われる。
喉が焼ける、体が凍る。
身体に何かが伝染し、
痛みともかゆみともつかない奇妙な感覚が走り抜け――――。
「――――ぁ」
がくり、俺は力なく膝をついた。
なんだ、なんだ。なんだよこれ――――
俺…もしかして死ぬのか?
チカチカと明滅する頭でそんなことを考える。
そうだといいな。こんな残酷な現実から離れて、宍戸さんと同じ場所に行ける。
自虐的なことを考え、少し笑う。
ぐにゃぐにゃ歪む堅い地面にどうと倒れ、激しいめまいと明滅する視界に襲われる。喉が焼ける。背中が寒い。
目は空いてるのに、頭は動いてるのに、どうしてか体が動かない。
息ができない。苦しい。
世界がグルグル回っていて、上と下があべこべになってはまたあべこべになる。
『……おい、長太郎』
宍戸さんの声がする。
空耳か、そうじゃないのか、今の俺にはどちらでもよかった。
『今何時だ?』
待って。分からないよ宍戸さん。
俺の時計、どうやらあの時壊れたみたい。
亀裂の入った文字盤に、もう動かない長い針と、短い針が影を落としてる。
二つは互いにそっぽを向いて、それ以上近付いたりも、離れたりもしていない。
一番遠い所で止まったまま、悲しい距離は縮まらない。
まるで俺と宍戸さんとの距離を示すように、
時計は、六時をさしていた
+++
あの時は確か、宍戸さんと学校近くの交差点で待ち合わせをしてた。
その日は俺が先に着いてて、宍戸さんのことを待ってたんだ。
宍戸さんはもう来るか、まだ来ないかと考えていると、
心が踊って、つい頬がゆるむのをこらえきることが出来なかった。
「おいチョートリー、思いだし笑いは高いぜー。」
先に帰っていく芥川先輩にからかわれるほど、俺はいく度か宍戸さんのことを思いだして微笑んでいた。
いけないいけないと思い頬をつねるが、ゆるんだ顔は全くひきしまってくれずに笑ったままだった。
「長太郎!!」
その時、宍戸さんが走って交差点に来た。急いで駆け寄ってくる宍戸さんは、額に汗をビッショリかいていた。
「宍戸さん、遅いスよ」
「わりぃわりぃ!つい部室で寝こけちまって。」
そう言って両手を合わせた先輩は、にっと乱暴に笑ってみせた。だがその顔色は、なぜか表情とは裏腹に青ざめていた。
「宍戸さんどうしたんですか?顔色が悪いですけど。」
「そんなことよりも、長太郎今何時か分かるか!?俺の時計壊れちまってよ。」
人の心配してるのに、そんなことと片付けられてむっとした。
どうもこの人は他人の心配はするくせに、自分のことはほとんど振り返らないきらいがある。
ま、いつものことかと割り切って、俺は自分の腕時計を見た。
「んー……そうですね。ちょうど六時くらいじゃないですか?」
その時、宍戸さんの顔から笑みが消えた。
目は驚愕に見開かれ、視線は俺にではなく、俺の後ろに向けられていた。
「どうしたんですか、宍戸さ…」
「危ねぇ長太郎!!」
+++
「……おい、起きろ鳳。」
「……。」
静かで、芯のある低い声が聞こえる。
ベシッ。頭に痛みを感じて、顔をあげた。
「……ぅ。宍戸さん?」
「寝惚けんな鳳。」
目の前には宍戸さんではなく、日吉がいた。
「あ、あれ……宍戸さんは。どこ?」
そこまで言って、俺ははっとした。
突然脳裏に惨劇が蘇る。
まざまざと、恐ろしいほどリアルに。
そうだった…宍戸さんはもう……。
忘れてた悲しみが舞い戻り、俺の心をギリリと引っ掻いて、心から赤い血が滲んで流れる。
震える奥歯をかみしめ、泣き叫びたくなるのを防ぐ。
「…何、泣いてんだよ。」
日吉は、いつものように、怒っても笑ってもいない表情で俺を見下ろしていた。
「……どうして、死んじゃったの、宍戸さん。」
おえつをもらしそうになるのを必死にこらえて、一言一言、噛み締めるように悲しみを吐いた。
あんな理不尽で、優しさのかけらもない別れ……。
ある日突然襲い来る、絶望という存在そのもの……
これが、死。
また涙が溢れる。
俺は情けなく首をうなだれた。
あぁ、今まで気付かなかった。
世界はこんなに暗いんだ。
宍戸さんがいないだけで、
こんなにも光を失うんだ、俺の世界は。
「……ハァ?」
日吉は短くそれだけ言うと、怪訝そうに眉を寄せた。
「オメー…勝手に先輩を殺すなよ」
「……へ?」
「さっき聞かれたぜ、宍戸先輩に鳳の居場所。見付けたら先待ち合わせ場所に行ってるって伝えてくれとも言われた。」
「……はい?」
「さっき相当うなされてたけど、何か変な夢でも見たのか?」
「……ゆめ」
ゆ、め?
夢?
それってつまり、
夢って意味?
つまり……。
夢、か。
夢か!!
ははっ、そういえば俺の制服はきれいで、全く血の汚れはついてない。ここは学校内の部室で、病院じゃない……。
さっきの出来事の証明をするものが何一つない!!
あーよかった。
夢か。
夢だ。
夢だったんだ!!
さっきの出来事は、全て、リアルでよくできた単なる悪夢だったんだ。
急に気分は晴やかになり、いろんなものが開けた。
視界が明るくなり、体が軽くなる。
全く、何寝惚けてんだと、ブツブツつぶやきながら日吉は掛け時計を外した。
「おい鳳、今何時だか分かるか。俺、時計持ってねぇから時間が合わせられねぇんだ。」
日吉は掛け時計の電池を交換しながら話しかける。
「あ、え。うん。ちょっと待って。」
袖をめくり、自分の腕時計を見て……――。
ギクリ。
心臓をわしづかみされたような衝撃が走った。
冷や汗が…額ににじむ。
腕時計は――
止まっていた。
単に止まっているだけならまだいい。
時計はちょうど六時をさしたまま止まっていて、いくつもの亀裂が文字盤に走り、亀裂の間には……赤黒い血が付着している。
普通に使っていたら、こんな壊れ方はしない。
しかも、この亀裂の入り方、血のつき方――
それは『夢』で見たのと同じもの。
血の気が失せていく。
嫌な汗が背中を伝う。
俺は生唾を飲んだ。
一つの、嫌な予想が脳裏をよぎる。
「…どうしたんだ鳳。」
さっきから黙り込んでる俺を日吉はいぶがしげに見た。
「ゴメン日吉、俺の時計も壊れてるから分かんないや。」
「…そうか。」
俺はテニスバックを掴み、慌てて部室を出た。
嫌な予感が鉛のようにのしかかる。
いや、そんなことはないと頭の中で否定しつつ、
心のすみで、嫌な予感に脅えていた。
とにかく今は――――
どうしても時間が知りたかった。
「……いきなり血相変えて、どうしたんだアイツ。」
+++
広場の時計台を見たら、針は5時57分をさしていた。
激しく心臓が暴れる。
嫌な汗がダラダラ流れる。
俺が予想した、嫌なひらめきは、恐らく当たっている。
「そんな……夢じゃなかっただなんて。」
俺は驚愕に目を剥いた。
時がさかのぼり、俺が変えたがっていた過去に、今、俺は立っている。
そういうことなのか?
寒気がする。
そんな……非現実な。
そんなことって、ありえるのだろうか。
だけど、日吉は冗談なんか言うヤツじゃないから、日吉の目撃情報はたぶん本当だ。
つまり、宍戸さんは、今、生きてる。
その時、あるひらめきが脳裏をよぎった。
過去に干渉することで、未来を変えられないだろうか。
事故が起きるのは、6時ぴったり。
その事故を防げば、宍戸さんは死なないですむんじゃないか?
俺はその考えにたどり着いたと同時に走り出していた。
待ち合わせ場所の、大きな交差点へ。
宍戸さんを死なせはしない!!
必ず事故を防いでみせる。
たとえ、
どんなことをしてでも。――――
+++
交差点まで普通に歩けば5分かかる。
今から走って6時に間に合うかどうか微妙なところだ。
今頃宍戸さんは『ここ』の俺と待ち合わせ場所で会えた頃ではないだろうか。
2種類の汗を同時にかきながら俺は人通りの多い道を疾走する。
時間がない。
たぶん事故まであと1分を切った。
……もしかして、もう間に合わないのでは?
事故なんて、もとから防げないのでは?
諦めが脳裏をよぎった。
嫌な考えをささやく俺を、振り払うようにがむしゃらに走る。
いつの間にか、俺は泣いていた。
あんな惨劇を繰り返すくらいなら、俺は死んでしまいたい。
もう、あんな悲しい思いはしたくない。
繰り返させるものか、
繰り返させるものか!
息もたえだえに、曲がり角を曲がって約束の待ち合わせ場所に着く。
交差点を見て……
そこで俺は驚きに目を見開いた。
「おう長太郎、遅かったじゃねぇか。」
思わず自分の目を疑う。
宍戸さんは、一人で交差点の前に立っていた。
「す、すいません。つい部室で寝ちゃいまして。」
『ここ』の俺がいない。
一体どういうことだ?
頭の中は混乱にぐるぐる掻き乱される。
だが、今はそれどころじゃない。
「どうした、長太郎?顔色がわりぃぜ?」
「そんなことよりも宍戸さん今何時ですか!?俺の時計今壊れてるんスよ!!」
時間を聞いてすぐにしまったと思った。
そういや宍戸さんの腕時計は壊れてるんだった。
「んーっとな、ちょうど6時くらいだぜ。」
…。
……………。
…………………え?
宍戸さんの時計が壊れてない?
そのことに気をとられて、頭が混乱し、一瞬気が緩んだ。
宍戸さんを今の危険な位置から遠ざけることを忘れていた。
そうだ、今は、6時。
もうすぐ事故が……。
俺は宍戸さんの右上を見た。
いつの間にか、2トントラックが背後に迫ってる。
運転手はハンドルにうつ伏せ。トラックの恐ろしいスピードはゆるまない。避けようとする気配も全くない
居眠り運転……。
不思議そうな顔をして宍戸さんは、どうした?と聞いてきた。
恐ろしいスピードで迫り来る死に、彼は気付いてない。
一瞬、体が恐怖にこわばった。
俺はそれを振り払うように唇を噛む。
俺がとるべき行動は、もう決まっていた。
宍戸さんが死ぬくらいなら……俺の命を盾にしよう。
どちらかしか生き残れないなら、迷わずこの命を差し出そう。
どうすれば宍戸さんが助かるか、方法は分かってる。
俺は、その一挙一動を見てたのだから。
宍戸さんが俺にしたときのように。――――
トラックの下に体が潜り込むように、宍戸さんを右斜めに突き倒し、
その上に、俺が覆い被さり、襲い来る痛みにそなえる。
全て、見てた。
宍戸さんが、俺をどう助けて、どういう風に死んでいったか。
全て、覚えている。
悲しいくらい、克明に。
…こうすれば、宍戸さんは無傷ですむ。
そして、俺の体がどうなるかも、分かってる。
俺は、決して無事じゃ済まない。
だが、俺の体がどうなろうと、そんなことどうでもいい。
ただ、この人を守りたい。
守りたい、ただ、それだけ。
雑音の洪水と、痛みの洪水。
自分が壊れる音がする。
自分が砕ける音がする。
俺は甲高い悲鳴をあげて、
そして、ぷっつり意識を失った。
「…ょうたろう、長太郎!!」
宍戸さんの声で、俺は一瞬手放していた意識を取り戻した。
「おい、おい長太郎!!しっかりしろ!!」
目を開けて、暗い世界に目を慣らす。
意識がもうろうとする。
頭がガンガンする。
かすむ視界の中、宍戸さんの顔が見える。
その時、全身に、むしろ笑えるくらいの痛みが走った。
脈打つ激痛に奥歯を噛み締め、顔を歪め、うめき声をあげた。
何かパイプのような異物が体にいくつも突き刺さっている。
そこから、痺れるような千切れるような感電するよう痛みが広がる。
したたり落ちる滴が、宍戸さんを鮮烈な赤に染めあげていく。
そこで俺は自分の運命を覚悟した。
そうか…宍戸さんの顔も、これで見納めか。
「長太郎、長太郎!!」
「す、いません…しし、ど、さん。どうや、ら……ここで、お、わかれ…です。」
俺は息もたえだえにそう言い、いつくしむように宍戸さんの短い髪をなでた。
短くした後も変わらず綺麗な、つやのある黒髪。
やわらかい香りが、焦臭いガソリンの匂いに邪魔されてかげないのが残念だ。
その時、ビクッと宍戸さんの肩が震え、涙に顔を歪めはじめた。
「なんでそんなこと言うんだよ!そんな……諦めたようなクチきくんじゃねぇよ!」
威勢のいい言葉とは裏腹に、声は震え、奥歯がカチカチ鳴っている。
大粒の涙が、黒い瞳からいくつも溢れ、頬を流れた。
どうか、そんな悲しい顔をしないでほしい。
俺は死んでしまうけど、宍戸さんを悲しませたくはない。
俺が死んでも、あなたは悲しまないで。
だって、これは俺が選んだ道だから。
だって、これは俺が変えた未来だから。
あなたは悲しむ必要はない。
俺の変えた未来で、あなたはどうか笑っててほしい。
だから、
どうか、
泣かないで。
あなたが悲しいと、俺はどうしていいか分からなくなる。
どうか……。
「しし、ど…さん」
泣かないで
悲しまないで
怖がらないで
「……そんな、か、お…しない、で、くだ、さい」
言って、少し咳き込む。
ほんの少しの咳で、ゴポリ、けっこうすごい吐血をしてしまった。
つやのある黒髪が、血に汚れてしまう。せっかくの綺麗な髪が、もったいない。
「長太郎!!もういい、しゃべるな!血が……血が!!」
宍戸さんは、いよいよ強く俺の服を掴むとぼろぼろ泣きわめいた。
「いかないでくれ、一人に、しないでくれ。ここでお別れなんて嫌だ!長太郎、頼むから……生きてくれ!!」
「…。」
宍戸さんの言うことは、全て叶えてあげたかった。
だが、それが無理だということを、俺は十二分に理解していた。
「す、いません……しし、どさん。いま、まで…ごめん、なさい。ありが、とう、ご、ざいま、した。」
「動くな!!しゃべるな!!オメーのお別れの言葉なんか聞きたかねぇ!!」
宍戸さんは、無抵抗な俺を揺さぶると、乱暴に口付けた。
こうして、口を塞いだつもりなのかな。
普段なら、こんないきなりキスをされたら、
それだけで天に召されてしまいそうなほど喜ぶのに、
今は―――
なんだか、カナシイ。
胸が締め付けられて死んじゃいそうになる。
宍戸さんは、息のつく暇もないくらい何度も俺の唇に吸い付くと、深く、深く、キスをした。
俺も弱々しく宍戸さんの唇に吸い付くが、だんだん力が出なくなって、すごくもどかしい気分になる。
目の前の宍戸さんが、だんだんかすんでいく。
近くにいるのに、唇は触れてるのに、だんだん遠く離れていくみたい。
宍戸さんの体温が遠のいていく。
痛みも、だんだん離れて、どこかに置いてきたみたい。
もう何も感じない。
唇は、いつの間にか離れてしまった。
気付けば、俺は一人、暗く狭い部屋にいた。
音もなく、臭いもなく、痛みも、体温も、唇の感覚さえもない。
ボーッと黒い虚空を見つめていると、俺はある考えにたどり着いた。
宍戸さんの壊れてない腕時計、
約束の場所にいない『ここ』の自分、
完璧に立場が変わっただけで、避けられなかった事故、
俺を助けてくれた宍戸さん。
どうして彼はあそこまで青ざめてたのか……。
一見何の脈絡のない物事が、重なりあい、一つの像を結ぶ。
結論は、こうだ。
俺を事故から助けてくれたのは、『今』の宍戸さんではなく、『一つ前の』宍戸さんなのではないだろうか。
つまり、時を越えて未来から過去を変えに来た、『そのまた一つ前の』俺にかばわれて助かった、宍戸さん。
俺が変えようとしていた惨劇は、実は、『一つ前の』宍戸さんによって変えられた、『一つ前の』宍戸さんの未来なのかもしれない。
ははっ。
俺は苦笑する。
そして…恐らく『今』俺が助けた宍戸さんは、また過去に戻って俺をかばって……
惨劇は、
リピートする。
これじゃまるで滑稽劇じゃないか!!
俺達はこの身を裂くような辛さや、心から血が出るという気持悪い痛覚を、繰り返すのか……永遠に繰り返すのか……―――。
ははっ。
おかしい。
本当におかしい、
最高に笑える!!
なんて酷いはなしだ!!
なんて滅茶苦茶なはなしだ!!
あはははははは!!
はははははははは!!
あはははははははははははははははは!!
俺は壊れたように高らかに笑った。
ひとしきり笑った。
これ以上ないくらい笑った。
笑って笑って笑いまくって、
そして急に静かになり、ぽつりぽつりと泣き出した。
「でも、惨劇が繰り返すのは、お互いの好きという気持が、永遠にお互いを守り続けるから………
ですよね?」
誰に向かってつぶやく。
分からない。
誰も聞いていやしない。
そんなことは分かってる。
そんなことは、分かってる。
思うと、自然と涙が溢れてきた。
ココロが淋しいとささやいてる。
ココロが会いたいとささやいてる。
暗くて狭くてどこか虚ろな部屋のなか、俺はそっと目を閉じた。
まぶたに浮かぶ、楽しかった『当たり前』の日々。
離れても、ずっと好きの気持は変わらない。
何度でも。
何度繰り返しても。
ずっと、変わらない。
好きの気持ちは、変わらない。
ずっと、
永遠に、
想いは、
6時を境に
リピートする
すぅっ…と、体が軽くなる。
俺は流れに身をゆだねた。
淋しいココロが引き寄せられる、その先には……
きっとあの人が待っている。
俺の、
強気で、
勝ち気で、
乱暴だけど……
根はすごく優しくて、
誰より自分に厳しい、
尊敬すべき、
努力家な先輩、
照れ屋で、
恥ずかしがりやで、
なかなか素直になってくれない、
不器用な一面もある、
俺が世界で一番好きな人。
俺の、世界で一番愛している人。
――優しい悲劇は、
終わらない。
二人が愛し合ってる限り、
二人の愛が終わらぬ限り、
優しい悲劇は、リピートする。
鳳は、
それで幸せだった。――――
そしてまた、歩き出す。
滑稽劇を演じるため、
悲しい惨劇を繰り返すため、
優しい悲劇を、リピートさせるため、
胸には一点の曇りもないキモチを抱き締めながら、
また『6時』に向かって歩き出す
優しい悲劇は、
『6時』を境に
オート、リ、ピート
HAPPY END
…END?