【一話 種】
いつも、おれの中心には赤黒い種のようなものがあるような気がしていた。それは、いつごろからあったのだろうか。はっきりしないが、一番最初に見たのは宍戸さんと特訓をし始めた、夏の大会前くらいの頃だと思う。ごく小さな種だ。それは別に変わったところのない、ただの赤くて黒いだけのありふれた存在のように見える。小さくて、爪ではじけば砕けてしまいそうに弱いが、縦と横と高さの調和がよくとれているせいか、眺め続けていても飽きることはなかった。表面にはなごやかな細い曲線からなる模様が、一面に広がっていて、それは自分の爪の先のように妙な親しみを感じさせるものだった。磨くと芽吹きそうに若々しく光り、ほうっておくと霧雨のように雲って腐りそうになる。光ったのも曇ったのも、どちらの状態も面白かった。だけど土に埋めようとか、水を与えてみようとは思わなかった。ただ、そこにある小さすぎる想いの種を、時々想像上の爪の先で小突いてやるだけで十分だった。
「一緒に帰りませんか」と言いそびれて三日になる。
宍戸先輩との特訓につきあいはじめて、おれと先輩が帰宅する時間はびっくりするほど遅くなった。テニスコートが開いている限りずっと練習していると、おれたちは必然的に終電まぎわまでコートにいることになる。まだ中学三年と二年のとる行動にしては、あまりに不健全だ。夜はなにかと物騒だから、そういう時間帯に外を歩くときは一人じゃないほうがいいのだが、おれと宍戸先輩は帰る方向が正反対なので、いつもコートの前から別れて帰宅している。おれとしては少し遠回りしてでも先輩を夜道で一人きりにさせたくないのだが、でも、彼の瞳を見るとどうしても言い出せなかった。
おれのそういう思いを受け入れまいとする信念を、宍戸先輩は堅くもっていた。人は他人と馴れ合いすぎると、一人では何もできない弱い人間になってしまう。そういう信念をかたくなに持っている人だった。
他人を信用しない。他人と馴れ合わない。他人の力はなるべく借りない。いざというとき頼りになるのは、自分の力だけ。どんなに強い絆だって、いつかは終わる。枯れ果てて消える。みんな離ればなれになる。そういう信念を、いつも細い瞳に宿した人だった。
おれはどんなに思いを伝えようとしても、その細い眼を見るだけで言葉が粉になり、消えてしまうのを感じるから、いつも言い出せないでいた。
それは違う。そんな信念は間違っている。一人に慣れることと強くなることは、全然違うものなんだと、面と向かってはっきり言えたらどんなにいいことだろう。だけど、それは自分の考えを人に押しつけているだけではないだろうかと思うと、どうも気が引けてしまう。自分が正しいと思っていることが本当に正しいのだと、どうして言えるだろうか。本当は、おれのこういう思いすら間違っているかもしれないのに。
考えは堂々巡り。結局、何も言えないまま一日が終わる。
彼はおれを特訓につきあわせてはいるが、それ以上におれの手を借りようとはしない。むしろ、それ以上借りを作らないようにと注意を払っているようにも見える。そばにいるのに近くにいない。近づきたいのにどこにもいない。宍戸先輩は、そういう人だった。
彼は自分とおれとの間に、悲しいほどくっきりとした境界線を引いて、それ以上近寄るなといつも細い眼で睨んでいる。
そういうとき、おれはいつもわけのわからない気持ちに襲われた。
種に変化がおきたのは、ちょうどそういうときだった。てっぺんから二つに裂けて、間から芽が吹き出してきたのだ。おだてにもかわいいとは言えない色形をしていて、なんだか、毒々しい印象を与えるような芽だ。ひどく黒みを帯びた、ずっしりと重たい、でも、むせ返るほど甘美な香りのする植物。植物はまっすぐ育つことはしないで、ツルのようにうねうねと四方八方に育っていった。可愛くない植物だなとは思ったが、それを引っこ抜いて捨ててしまおうという気にはならなかった。長いこと見つめつづけていたせいか、不思議な愛着のようなものがわいていたのだ。
植物は日光を浴びて育っているのではなさそうだ。それは、日の出とは関係なしに決まったときにザワザワと成長しているらしかった。たとえばおれが、宍戸さんと練習しているとき。たとえばおれが、宍戸さんの怪我を手当しているとき。自分の部屋に一人でいるときに突然ザワザワ育っていったことがあったが、それは直前に宍戸さんから練習メニューの変更を伝えるメールが来たときだった。
この種は一体どういうものなのだろうと、ふと考えることがある。尊敬にしては、あまりに形がいびつだし、心配の感情にしても、あまりにも黒い。いらだちや嫌悪かなと思うときもあったが、おれが宍戸さんの一体何に嫌悪することがあろうかと思うとどうも違った。
なんだか、不思議な色の危うさを帯びた、たちの悪い植物のようにも思える。ザワザワ、ザワザワといびつに育ってゆき、時々そのありさまにぎょっとすることさえある。だけど、妙な愛着だけは変わらずあって、見ていてひどく不安定になるくせに、どうもその植物から眼をはなすことができなかった。
宍戸さんの傷の手当てをしながら、ふとそのことを考えていた。彼の赤黒いアザやジュクジュクと血のにじむ傷口を、丹念に消毒してゆく。そうそう、こういう色合いなんだよね、あの種から出てきた植物って。
夜はずっしりと重くて、そういう環境だと植物がまたさらに成長しそうで恐い。なんだろう、最近はこの植物を育てていい気がしないのだ。持っているだけで罪に問われる、阿片やコカインの苗に見えて仕方がない。かと言って、これを刈り取ってしまう気も起きなかった。別にこれくらい、どうせこんなにちっぽけな植物なんだし。そう思うといくらか不安定な気分が引いていった。それに、想像に生息する植物を刈り取るなんて、どだい無理な話だった。それに・・・。
そんな放心状態のおれを見かねて、宍戸さんは言った。
「鳳、なにをぼさっとしてんだ」
おれははっと顔をあげた。あきれたように眼を細める宍戸さんと視線がかち合い、びっくりすると共に植物がザワザワした。
「お前、またぼーっとしてたんだろ」
「すいません、つい」
「消毒液見てんのかって思えば眼の焦点が合ってねえんだもん。なんだ、腹でも痛いのか」
「違うんです。ちょっと考えごとを」
おれはごまかして笑った。
「お前ってそういうこと多いよな。抜けてるっつーか、なんつーかな。しっかりしろよ鳳、まだ特訓は折り返し地点まで来てねえんだからな」
「はい」
度々おれはこういうことをしてしまっていた。あまり植物のことばかりに気を取られすぎて、手元が止まってしまうのだ。そういうとき宍戸さんはおれのことを「のんびりしたやつだな」と言いたげに見ている。
宍戸さんはラケットを掴んでベンチを立った。長い黒髪が夜のなかを乱暴に揺れて、彼の表情を隠す。
「ったく、返事は素直なのによ」
別に怒って言っている様子ではなかった。ただ、「あきれた後輩だ」と言いたげに鼻で笑っていた。少し冷たくからかうように、彼は瞳を細めていた。
宍戸さんの特訓に対する熱意や努力は、普通の人なら音をあげるほどだった。倒れても倒れても、そして、立ち上がれないくらいの疲労や痛みに体中が悲鳴をあげても、それでも球に向かってゆこうと立ち上がる姿は、見ていて背中が震えることがある。夜中コートが閉まる時間になり特訓が終わると、宍戸さんは倒れこむようにベンチに座り、そして時々うとうととそのまま深く眠ってしまいそうになることもある。あんなに体を動かしたのだから、無理もない。
そういうとき、おれはなるべく起こしたくないと思うし、そっと寝かせおいてあげたくなるのだが、もたもたしていると終電に間に合わなくなってしまうのでいつもは起こさなけらばいけない。
この日もそうだった。おれがスポーツドリンクやタオルをカバンのなかにしまっている途中、彼はいつのまにか志半ばで事切れるように片手でタオルを握ったまま眠ってしまっていた。ベンチに背中をぐったりあずけて、静かに寝息をたてている。
「宍戸さん、こんなところで寝ちゃわないでください」
おれは肩を揺らせて起こそうとしたが、今日のはどうも眠りが深いらしく、いくら呼んでも返事すらしない。これはひっぱたかないと起きないのかなと思うと、気が引けてきた。いくら起こすためとはいえ先輩に手をあげることなんてしたくない。このまま起こさないように背負って先輩を家まで送ろうかと思ったが、おれは宍戸さんの家を知らないからそれも無理だった。先輩の生徒手帳に書いてある住所をたどって送ってみようかとも思ったが、人のバッグを勝手にあさるのも気が引ける。先輩を無理矢理起こすのと同じくらい嫌な気がした。おれはどうしたものかと悩みはじめたが、そうもたもたしてもいられない。早くしないと終電が行ってしまう。そうなると徒歩で家までの道のりを歩くはめになってしまう。そうなると宍戸さんなんかは帰り道が三時間くらいかかってしまうだろう。それだけは何としても避けたい。おれは意を決して宍戸さんをたたき起こすことにした。
事がおきたのは、そのときだった。
宍戸さんの肩をゆすろうと手をのばしておれは青くなった。植物がザワリザワリと騒ぎだしたからだ。それはいつもよりも激しく、雄々しく、毒々しくうねり、成長している。おれはとたんに不安定になった。嫌な予感が繰り返し頭をよぎり、離れない。
いつの間にか眼が釘付けになっていた。宍戸さんの長い黒髪に、強い力で押さえられているように注視していた。目眩がする。激しい動悸に肩が震える。手はいつの間にかそこに伸ばされていた。肩ではなく、その黒髪へと、手がのびる。指先が震える。さわりたい。その髪にさわりたい。強い衝動と強迫観念に支配され、おれの右手は自分の意志とは無関係に動かされていた。人差し指の先が、激しく震え、まさにその滑らかな黒髪にふれようとする。その時、おれははっと左手でそれを制した。いけないと思った。駄目だと思った。さわってはいけないという良心のかけらのような声が、脳裏によぎる。おれは深く息を吸い込んだ。夜の冷たい空気のおかげで、心臓の暴走がスーッと波のように引いてゆく。
おれは我にかえって、変だなと思った。どうしておれはさっき宍戸さんの髪にさわろうとして、そしてそれを駄目なことだと思ってやめたのだろうか。よく理由がわからない。首を振り、疲れているのかな、と思うことにした。
その時、宍戸さんがわずかに寝返りをうった。肩にかかっていた黒髪が、流れ、ゆっくりとすべってゆく。月明かりに照らされ、それは驚くほどくっきりと見えた。
駄目だ、と思った。さわれない、と思った。また植物が、ザワザワ言いだしている。今夜のような明るい夜は、すべてがくっきり見えすぎて恐ろしい。今起こそうとすれば、また、あのわけのわからない衝動がわき上がってしまいそうで、背中が震えた。嫌な汗が一筋、背中を伝って流れてゆく。
おれは迷いに迷ったあげく、名案を思いつき、それに従うことにした。このままここで、野宿をしてしまうのだ。夏の夜は少し冷えるが、気をつけていれば風邪をひくほどではない。それに親にだって、いつの間にか二人とも寝てしまっていた、と説明すればそんなにひどく騒ぐこともないだろう。
おれは宍戸さんに自分のパーカーをかけて、ふかくベンチに沈みこんだ。
植物だけが、ザワザワと騒いでいた。
やがて朝がきて、先輩が眼を覚ました。彼はしばらくぼんやりと朝焼けを見上げていたが、すぐにはっとしておれに言った。
「おい鳳、どうしてくれんだ」
「はい?」
「なんで俺のこと起こさなかったんだよ、ここで一晩明かしちまったじゃねえか」
「すいません、宍戸さんが寝ているのを見ていたら、起こしづらいなと思って」
「だからってそんなことすんなよ」
「すいません、でも、どうしても起こせなかったんです」
「はあ? どういうことだよ」
「どういうことって」
「なんで俺のこと起こせなかったんだって聞いてんだ」
おれはいささか声が震えた。誰にも悟られていないはずのこの植物の存在が、気づかれてしまったのだろうかと焦った。宍戸さんは続けた。
「東京の夜なんて何があるもんかわかりゃしねえのに、野宿なんて危険なことしやがって。二人寝ている間に何かあったらどうすんだよ」
「はあ、すいません。でもおれはずっと起きていましたから、それで大丈夫だと思っていたのですが、駄目でしたか」
「いや、それなら別にいいんだけどな。ていうかすげーな、お前今夜は一睡もしてなかったのかよ」
「はあ」一睡もできるわけがない。
「本当にお前ってバカだな。ひどいクマができてっぞ」
「すいません」
「いや、別に軽蔑したわけじゃねえんだ。鳳って少し抜けてるけど、いいやつだな。ばか正直っても言うか。そういうやつが身近に一人くらいいても、悪くないな」
彼はからかうように、笑っていた。
+++
植物は思わぬ効果をもたらした。あれ以来宍戸さんが、はっきり境界線を主張してこなくなったのだ。
こんなのんびりとしたやつにうるさく何かを主張しても仕方ない、と思いはじめたらしい。おれはおさえきれない内心の喜びで、飛びあがりそうだった。
おれたちがダブルスを組む頃になると、宍戸さんはおれを警戒するよりも、むしろ信頼してくれるようになっていた。以前よりもずっと棘がとれて、よく笑うようにもなった。他人を敵視する姿勢は相変わらずだけれど、おれのことは他人ではないと認識してくれているらしかった。嬉しかった。涙ぐむほど嬉しくてたまらなかった。植物は相変わらず変に騒いでいるけど、以前ほど気にならない。たぶん、慣れたのだろう。以前はその姿にぎょっとすることがあったが、今では全然構わなくなった。植物がどう育とうが、今のおれにはあまり興味のないことだ。
時々、テニス部の同じ学年の人から、どうして宍戸さんとあんなに仲が良くなったのかと聞かれることがある。あんなに厳しくて、何かにつけて睨んでくるような人で、同級生ですらあまり近寄らないのに、そんな先輩とどうしたら普通に話ができるような仲になるのか、不思議らしかった。
おれはそういうとき、口をつぐんで笑っていることしかできなかった。まさか、「自分の中心に赤黒い種をもつんだよ」だなんて、言えるわけがない・・・。
そんなことを思い出しているおれを見かねて、宍戸さんが嘆息した。
「おい長太郎、なにをぼけっとしてんだ。練習始まるぜ」
おれははっと顔をあげる。目の前には青いキャップをかぶった宍戸さんが仁王立ちで待っていた。
「まったく、のんびりすんのも大概にしろよ」
「すいません」
「大会が終わって秋になったからって、気を抜いてたらすぐレギュラー落ちるぜ。ほら、あと三〇秒くらいで練習始まる、気を引き締めろよ」
彼はトントンと自分の腕時計を小突いた。
「はい」
おれは笑いながら返事をした。ラケットを手に取り、部室をとびだした。
「宍戸さんの時計って、いつも正確っすよね」
そう、この人の時計はいつの正確だった。時報とほぼ同時に零時を指し、どんなに乱暴に扱っても秒針さえ狂わなかった。宍戸さんは日ごろは細かいところに大らかな人なのに、練習時間のこととなるととたんに口うるさくなった。そういうところを、おれはけっこう好きだった。
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