【二話 とても、とても、わからない】

おや? と思うことが起きる。
夏が終わり最近は涼しくなり体を動かしやすくなったある日、宍戸さんの様子がいつもと違っているのに気づいた。なんだか、練習中に集中力に欠いているように見えるのだ。何か巨大なものに気をとられていて、目の前のボールを注視できないでいるというか、なんというか、コートの向こうを見ていながら焦点は別のところで結ばれている、そんな感じがした。顔色が悪いことは今まで何回かあったが、ここまでひどく蒼白になることはない。おれは嫌な予感をおさえきれずに尋ねてみた。
「宍戸さん、どうしたんですか今日は。調子が悪いんですか? すごく顔色が悪いし、昨日、ちゃんと寝たんですか?」
彼ははっとした顔になると、ぎょっとおれを振り返った。おれが後ろにいたことを今しがた気づいた表情だ。昨日何があったのだろう、こんなにぼーっとした宍戸さんを見るのは初めてだ。
「・・・ん、別に。いつも通りだぜ」
「何か考えごとでもしているんですか?」
「何も」
そうだろうか。何もない人がそんなにひどい顔をするだろうか。思いつめたような表情を無理矢理笑顔にしてもたって、おれにはわかるのに。
その時、素振りしている宍戸さんの手からラケットがすっぽ抜けていった。ガラランという音とともにラケットはおもいっきりコンクリートを叩き、ガラン、ガランと傷ついていった。
彼は細い眼を見開いてひどく驚いたようにラケットを睨み、そのまますうっと切ない表情になった。
「宍戸さん、大丈夫なんですか」
「ああ、よかった誰にも当たんなくて」
そんなことよりも宍戸さんが大丈夫かが知りたい。
「宍戸さん、調子が悪いなら早めに言ってくださいよ。何かあったらどうするんですか」
「それより長太郎、次にコートが・・・」
彼は自分の短い黒髪をかきながら、笑って行ってしまった。おれは眼を細めてその表情を見つめていた。


宍戸さんは人の家が大好きな人だった。
自分の家じゃない所が、違う匂いのする家が、人の部屋が、とにかく好きで、いつからか毎日学校が終わると彼はおれの部屋に遊びに来ることが日課になっていた。おれの部屋なんて、ピアノと机があるくらいで面白みに欠けるようなつまらないところなのに、彼は好んでおれの部屋にあがってきてくれた。
部屋に座って冷たい麦茶を飲んだり、雑誌を読んだり、冗談を言い合って談笑したり、そういうおれたちは絵に描いたような中学男子だった。
そして今日も、宍戸さんはおれの部屋でのんびり雑誌を読んでいた。けれど一日が終わっても彼の調子は相変わらずだった。表情に重たい影がおちこんでいて、何かに気をとられたままのようだ。笑っていても、瞳の底は笑ってなどいない。焦点は雑誌を突き抜けて、どこか遠いところで交わっている。宍戸さんはここにいるのに、心はどこにもいない、そんなかんじがして恐い。
「どうしたんですか宍戸さん、今日は一日ずっと恐い顔をして」
「ん・・・俺、そんな顔してたか?」
彼は日焼けした頬をつまんでみたりして茶化しているが、その無理矢理頬を吊り上げているような笑顔はおれをさらに不安にさせる。
「別に、普段通りにしてたつもりだったけど」
「違いますよね、そうじゃないんですよね、きっと何かがあったんですよね。何か、悩みごとでもあるんですよね」
おれは心なしか緊張した声で言っていた。
「・・・別に、何でもねえよ」
言って彼は口だけで笑った。
そうだろうか、何でもない人がそんな重たい表情をするものだろうか。
こんな宍戸さんを見るのは初めてだった。こんなに、息をするのでさえ辛そうな表情をしている宍戸さんを、おれは今まで見たことがない。蛍光灯の光を背中に浴びて、彼は立て膝をしながら雑誌を読んでいる。ページをめくる指先におちる影ですら、いつもより暗く重たく見える。その表情には深い影が落ちていて、口元だけが貼りついたように笑っていた。それが、見ていてさらに、おれを不安な気持ちにさせる。頭をかかえて、背中を丸めたくなるほどの不安が、こみ上げて背中を襲ってくる。
それは植物の成長する音に似ていて、それがさらに不愉快だった。
「話の続きだけど」宍戸さんは言った。「お前、家出とかって考えたことあるか?」
ちっとも話の続きじゃないものだからおれは驚いて宍戸さんを見た。
「家出・・・っすか」
それがなんなのだろう、と考えることは今はよしにした。
家出。あまり考えたことのないワードだ。と言うより、今のおれには一番関係のない言葉だと思う。だって、今は家族全員家の外に出ていて、おれには家出して離れられる家族がいないのだ。父親は海外に、母親は東北に、姉はずいぶん前から外国に留学。おれにとっては今まさに家出をしている状態だと言っても過言ではなかった。
まさか、と思う。宍戸さんは家出をしたいと考えているのだろうか。この日常を放棄して、どこか遠くへ離れていきたいと思っているのだろうか。この日常が、嫌いになってしまったの・・・?
「別に!」おれの表情を見て驚いたように宍戸さんは言った。「家出してみてとか、そういうことを考えてるんじゃねえからな。ほら、そういうことに無意味に興味がわくっつーか、なんつーか、特に深い意味はないんだ。ただ、ふと思いついたこと言ってみただけだ」
宍戸さんはごにょごにょと口を濁した。それを見ておれはふっと脱力して笑った。
「わかっていますよ、宍戸さん」あなたが嘘をついていることくらい。「そうですね、中学生が家出をしようとするとしたら、まず衣食住に困りますよね。なにせ経済能力が無に等しい年齢ですから。それに一五歳未満は法律でバイトが禁止されていますし、冷静に考えて中学生が家出をして自立生活を送ることはまず無理でしょうね」
「そうか、やっぱしそうだよな」
彼の表情に、あきらめの色が見える。きっと宍戸さんは、何かに悩んでいて、それから逃れたいと考えているに違いない。その悩んでいる何かが一体なんなのかは、今のところ予想はつかないが、彼がもしこの日常を壊してしまおうと考えているなら、おれはぜったいそんなことをさせない、許さない、何がなんでも、彼をこの日常から離す気はない。植物が激しく騒いでいた。
彼はまた何事もなかったかのように、雑誌のページをめくりはじめた。
その時ふと、考えが浮かんできた。宍戸さんがもし文字通り家から離れたいだけなのなら、もうひとつだけ家出の方法がある。
「宍戸さん、ありますよ、家出の方法」
「・・・へえ」
彼はやるきのない声で言った。けれど眉は素直に、ぴくりと動いていた。
「俺の家に、泊まりにくるって手段です。これなら衣食住に悩まなくてすみますし。あ、でもこれだとずっといることは無理ですけど。だけどおれの親が帰ってくるまでの間なら、家出をすることができますよ」
「・・・おいおい、なんで話が俺が家出をすること前提に変わってるんだよ」
「でも宍戸さんは、実際に家出をしてみたいからそういうことを言うんでしょう?」
「・・・」
「ねえ、やってみません? おれの家へ、家出をしに」
「・・・」
彼は何も言わないで雑誌を注視している。だけどおれにはわかっていた。宍戸さんはこの話に、かなり興味を示していることを。
その時、外で六時の時報が鳴った。宍戸さんはふと眉をひそめると、自分の時計を見た。
「なんだよこいつ、ほんの少しだけ遅れていやがるぜ」


+++


結局、おれは長い長い説得の末、彼をうんとうなずかせることに成功した。
宍戸さんは今、きっと家に帰って衣類やら何やらを取ってくるついでに置き手紙を書いているのだろう。
時計が一二時をまわったころ、おれの家のインターホンが鳴った。画面をのぞき込んで外の様子を確認すると、そこには大きめのバッグを小脇にかかえ、画面に向かってぐっと親指をたてる宍戸さんが立っていた。どうやら親が寝静まったスキに抜け出すことに成功したらしい。
外にいる彼におれの今の表情は見えない。液晶画面の前でおれはへらへら笑いながら、でもザワザワとうごめく植物を気味悪く感じていた。

その日の夜、宍戸さんはおれのベッドで寝て、おれはその横に布団を敷いて寝ることにした。彼は疲れていたのか、布団に潜り込むなりすぐに深い眠りに落ちてしまった。おれはその寝顔を見てくすくす笑っていた。あまりに幸せすぎて、おさえていたのがこぼれ落ちるように笑っていた。
しばらく寝つけなくてうとうとしながら宍戸さんの寝顔をながめていると、暖房がききすぎているのに気づいた。しっとりと汗をかいてきて、宍戸さんも気のせいか寝苦しそうにしている。
おれはのっそり起き上がって、暖房を止めて窓を少し開けた。外は暗く静まり返り、星が冷たく光っていた。木々はねっとりとした闇にからめとられたように少しも枝を揺らさず、時間は制止していた。
背中がゾワワと粟立った。それはちょうど、植物が好む時間のようだった。
宍戸さんが寝返りをうつ音がする。おれは横目でちらりと見た。ザワザワと植物がうごめくのにあわせて、自分の目がギラリと光っているような気がして恐かった。


+++


部屋に差し込む朝の光に、部屋がにわかに暖かくなってきた。目覚ましのベルがけたたましく鳴り、おれは目を覚ました。朝は苦手だったが、おれの横にいた人物を目にするなり、重たい眠気はすうっと波が引くように消えてしまった。宍戸さんは腕だけベッドからはみ出した体勢で眠っていた。静かな寝息をたてていて、眉間のシワはすっと伸びている。安らかな寝顔だった。おれは起こしてしまっては可哀相だと思い、先に朝食を作ることにした。
誰かと朝食を共にするのは、実は久しぶりだった。両親の出張も、姉の留学も、ずいぶん前から始まったことで、おれは実質一人暮らしをしていると言っても過言ではない。ほどなくして、テーブルにはトーストと目玉焼きと軽いサラダが並び、蒸気でリビングがぼんやり輝きはじめた。
「やべえ! 朝練に遅刻する!」
ドタドタと階段を転げ落ちるようにやって来た宍戸さんは、おれの顔を見るなりそう怒鳴ってきた。言ってから、あっという顔になった。おれは思わず吹き出して、けらけら笑ってしまった。笑っては悪いとわかっていても、こらえきれるものではなかった。
いつも厳しい顔をした彼は、こういう時、とっさに茶目っ気たっぷりになる。彼は言った。
「そうだった、俺家出したから朝練関係ねえんだったなクソ」
困ったように笑いながら、頭をがしがしかいた。「やっちまったぜ」と言わんばかりの、笑顔だった。
「朝食はもうできあがっていますよ、すぐに食べますか?」
「おう、もらおうかな」
おれたちはすぐにイスに座り、朝食をとりはじめた。宍戸さんは朝に和食か洋食どちらを食べるのかを昨日のうちに聞いておくことを忘れていて、おれは自分が食べているメニューをそのまま出していたから朝食が彼の口にあうかにわかに心配だった。だが、どうやら気に入ってくれているらしかった。彼は無言でうん、うんとうなずきながらこんがり焼けたトーストをカリリと噛み砕いている。派手に喜びはしないけれど、これが宍戸さんの、オイシイものを食べた時の表情。それを知っているからこそ、おれもその顔を見て素直に喜ぶことができた。
「お前って、けっこう料理がうまいんだな」
「ありがとうございます。よかった、宍戸さんが喜んでくれて」
「いつも俺が食ってるのより断然うまいぜ」
「そう言ってもらえると嬉しいっす」
最初のうち、おれは料理をするのはとても苦手だった。簡単な目玉焼きひとつでさえ満足に焼くこともできなかったのに、今ではメインディッシュからデザートまで一人でかなり幅広い種類の料理が作れるまでになっていた。ここまで料理の腕があがったのは、哀しいかな一人でいる時間が長すぎたせいかもしれない。
「宍戸さん家は、いつもは誰が朝食を作っているんですか」
と尋ねたおれの目を、彼は哀しそうにのぞき込んで、気まずそうに言った。
「今は、兄貴と俺との交代」
「今は、ですか?」
「俺の母親が起きていた頃は、母親だった」
おれはそこではっと青くなった。しまった、と思った。今の質問をなかったことにしてほしい、と思った。言ってはならないことを、聞いてはならないことを、聞いててしまったからだ。宍戸さんにはお母さんがいた。
もう意識がない、眠ったまま病院でひっそり生きているお母さんだった。