【三話 朝の野菜】

宍戸さんがおれの家に来てから、どうにか一日が過ぎた。『どうにか』
という息切れしそうな言葉を使うあたり、おれの今の苦労がよくわかると思う。
おれは今、日常生活を送るのにものすごく神経を使わないといけなかった。『信頼する先輩の突然の家出に戸惑う後輩』を演じるのは、予想以上に体力を消耗した。まさか、こんなに大変だとは予想していなかった。あ
言うまでもなく、宍戸さんは家出をしてどこか遠くへ行っているということになっていて、まさかおれが自分の家に彼を泊まらせているだなんて誰一人知らない事実だ。
彼からは『長太郎は嘘が下手くそだから、俺の家出については余計なことは一切喋らないで、ただ知らないとだけ言うんだぞ』と念押しされている。だからおれは先生やら先輩から宍戸さんの消息について聞かれても、カナシソウな顔で『知らない』の一本調子で乗り切った。
だからおれは必要以上に明るくてはいけないし、常に宍戸さんのことを心配しておろおろしていなければいけない。ましてや、おれだけが本当のことを知っていることに対する優越感に頬を緩ませるなんて、御法度もいいところなのだ。
だけど、宍戸さんの消息をつかもうと慌てる先生たちの姿は、なんだかひどく滑稽で、見ていて思わず笑ってしまいそうになる。笑いをこらえることがこんなにも重労働だとは、知らなかった。とても腹筋が痛くて、きっと明日にはひどい筋肉痛になっている。

おれが家に帰ると、珍しく宍戸さんはゲームをしていた。
彼はリビングで一人、黙ってゲームに熱中している。家にはゲームの低い電子音が弱く響き、彼の顔はブラウン管の光に淡く照らされている。眼はいつもよりも細く、鋭く画面を睨んでいた。
おれはなんだか邪魔しちゃ悪いと思い、何も声をかけずに台所に入っていくことにした。学校の部活が終わってから帰宅すると、もうその頃には夕食の時間になっている。お腹も減ってきた頃だし、夕食の準備にとりかかろうと思った。さて今日は、どんなメニューにしようかなと考えはじめたとき、宍戸さんが立ち上がって言った。
「なんだ長太郎、今から晩飯作るのか。そんなら俺も手伝うぜ」
彼は素早くゲームを片づけた。
「そうですねえ、今日の夕食は何にしましょうか」
そう言っておれは台所にあるあらかたの食材を思い浮かべた。確か冷蔵庫に昨日作ったカボチャの煮付けがあるから、それを温めよう。スパゲッティーとかをゆでて、ミートソースの缶詰がまだ戸棚の中に残っているはずだから、それとからめる。弾んだ気分で今日のメニューを考えていると、宍戸さんがおれのラケットを手にとっているのが目に付いた。家に帰ってきてから片づけないまま、壁に立てかけておきっぱなしだった、おれのラケットだ。
「そのラケットが、どうかしましたか?」
おれが言うと、彼ははっとした顔になった。いつもは細い眼を見開いて、ぎょっとした顔のように見える。心なしか、表情も青い。
「ん、いや・・・」
彼は慌ててラケットを置いた。
「そういや今日、テニスやってねえなって思ってよ」
「そうですよね、だって宍戸さん昨日から一歩もこの家を出ていないんですから」
彼は最後にラケットをチラリ見やると、何か手伝うものはないか、と言って台所に入ってきた。
そういえばそうだ、宍戸さんは今日、ろくに体を動かしていない。彼の体は今、そのせいでだいぶナマっているはずだ。
おれが風邪でやむなく一週間学校を休んだときを思い出す。おれはその時、スカッドサーブの感覚を取り戻すことでさえかなり苦労していた。
もし彼の『家出』が長引けば、それだけ周りから遅れをとることになる。そしてもしかしたら、それが原因でまたレギュラーから落ちることになるかもしれない。宍戸さんとこうしていたいのと同時に、宍戸さんに迷惑をかけたくないとおれは正直に思った。
宍戸さんはふとテレビの時計を見て、自分の時計を見て驚いた顔になった。
「なんだこりゃ。俺の時計、一分遅れてやがる」
細かいなあ、と思って俺は苦笑した。


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夕食ができあがり、食卓にあたたかい料理が並んだ。宍戸さんとおれがテーブルに顔をつき合わせて食べはじめたとき、おれは言った。
「そういえば宍戸さん」
宍戸さんは箸を止めないで短く返事をした。
「どうして家出なんてしようって思ったんですか。何か理由でもあるんでしょう?」
ぴくり、彼の眉が動く。
「・・・別に。単に毎日が退屈でつまんなくなってたからよ、そういうことをしてみてえって思っただけだ。得に理由なんてねえよ」
おれはその答えを聞いて驚いた。別に、予想外な答えを聞いたからじゃない。宍戸さんが言ったのはおれの思った通りの返事だったのだが、それを言うときの宍戸さんの表情が、何かを隠している様子だったからだ。
「あれ、嘘言っちゃいけませんよ。だっておれ、そういうことわかりますからね」
「・・・」
「何か別の理由があるんですね、家出について。言ってくださいよ、おれに隠し事はできませんからねー」
おれはおどけた調子で言った。半分冗談のつもりだった。からかっているつもりだった。だけど宍戸さんの表情は正反対だった。宍戸さんは押し黙ってしまった。眉をだんだん歪ませ、つらそうにひそめ、そっと目を閉じた。
「頼むから――」
おれは思わず箸を止めた。
「そのことについて、あんまり聞かないでくれ」
宍戸さんの声は、暗く重くて、本当につらそうだった。
おれはそれ以上彼を問いつめてはいけないのだと思って、口をつぐんだ。
おれが思っていた以上に、その理由は宍戸さんの深いところに根ざした問題らしい。今の宍戸さんを見ると、とても放っておけないほどつらそうだった。
だけど、もし宍戸さんがここに「家出」をすることで少しでもその気持ちを和らげられるのなら、彼をずっとここに置いておいてあげたいと思った。彼をずっと、その理由から遠ざけてあげたい、そう真剣に思った。

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「長太郎、風呂あがったぜ」
「あ、はい。じゃあおれもすぐに・・・って・・・」
一人で広いテレビをながめていたおれは、リビングに入ってきた宍戸さんを見る。あたたかい色の蛍光灯が照らすリビングはおれ一人でいるには広すぎて、宍戸さんはまだあがらないのかなと待っているときだった。おれはそこで、文字通りかたまったのだ。
「ぎゃあああ! し、しししし宍戸さん上うえうえうえ!」
「ん、ああ。シャツを脱水場に持っていくの忘れてな」
ドアの前に立っていたのは、肩にタオルをかけて上半身ハダカ姿という、なんともおれの目に毒な姿の宍戸さんだった。
「早く着て着てなにか着て着ておれの頭がタイヘンなことにならないうちに着て着て着て!」
「オイオイお前がシャツ脱いでどうすんだよ。いいよ、俺うえに換えのシャツ置いてきてあるし」
「いいから着てぇ!」
おれは半狂乱になりながら無理矢理宍戸さんに自分のシャツをかぶせる。宍戸さんがよくてもおれが駄目なんだ。
宍戸さんはあらがいがたい魅力の持ち主なので、その、そんなに刺激的な姿でいられたら、おれは、そう、いろいろアブナいと思った。何がどう危ないのか、よくわからないけど、とにかく本能が危険だ危険だ危険だと力一杯警鐘を鳴らしていた。まあ、なんだ、その、おれは宍戸さんにとってただの後輩だから、らしい。
「だからいいって。上から自分のシャツ持ってくるし」
せっかくおれが着せたシャツを宍戸さんは脱ぎ捨ててしまった。おれはもう一度着せようとしたら、シツコイと言われて殴られた。
宍戸さんのきめ細かい白い肌に、思わず目がいった。そしておれは、ギクリとした。おびたたしい数の、紫に変色した打撃痕が、痛いほど目に飛び込んできたからだ。
彼はすたすたと階段をのぼっていき、すぐにおれの視界から消えた。おれはリビングに立ちすくみ、頭が重くなってゆくのを感じていた。まぶたの裏に、まだあの鮮烈な紫が焼き付いていた。
なんとなく、なんとなくだけど、わかってしまった。