【四話 植物の名前】
『FROM 晶』
『TO 亮』
傷口が無事にふさがったので明日退院します。亮には随分心配かけたね。ごめんな。
『FROM 亮』
『TO 晶』
兄貴の裏切り者。
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もうすぐ終わるとは、わかっていた。
「俺、もうそろそろ家に帰るな」
だけどその日は、おれが思っていたよりずっと早くやってきておれを驚かせた。
宍戸さんの「家出」生活二日目の夕暮れ。燃えるような夕日が彼の向こうで沈もうとしているとき、部屋で二人きりで下らないことを言っては笑っていた。楽しい時間だった。
なのに、おれは嫌な気分になってしまった。別に宍戸さんが出ていってしまうからではない。それはたしかに残念に思うけれど、いつかこの時がくるのだと覚悟していたから思っていたよりショックは軽かった。
おれが嫌だと思うのは、どうして宍戸さんが今さっき来た一通のメールを読んだすぐ後にそんなことを言い出すのか、だ。
気分は最悪だ。あれほど笑っていたのに、もう全然楽しくない。誰からですか、そのメール。宍戸さんの意志を曲げるそんなひどいメールを送りつけたのは、一体どこのどいつですか。
「まだそんなに遅い時間じゃねえし、今からでも家に帰るな」
「え、今?」
おれはこれ以上ないほど嫌な気分になった。黒い固まりが腹の底に沈殿している。吐き気さえする。思わず眉をひそめておれは言った。
「今夜はまだここにいませんか? ほら、帰るのは明日でもいいじゃないですか。今日はまだここにいてくださいよ」
「いや、さすがにもう悪いって」
宍戸さんはすっぱりそう切り捨てると、自分の荷物をまとめはじめた。もとからそんなに多くなかった荷物はすぐにひとつにまとまり、彼はそれを軽々と玄関へ運んでいった。おれは少し苦い顔をしながらその背中を見つめていた。いや、睨みつけていたと言ったほうが正しいかもしれない。植物がまたザワザワいいだしていて、気分が悪かった。
「そんじゃ、また明日な長太郎」
「はい、また明日」
おれは無理に唇の端を引き上げて、笑顔を作って見送ることにした。彼の手がドアノブにかかる。ガチャリと音がして、ゆっくり開かれたドアのすき間から、線になった夕焼けが刺してくる。おれは思わず目を細める。もう、終わってしまうんだ。この楽しい非日常も、ぬるま湯のようにまどろんだ雰囲気も、二人きりで顔を見合わせ笑いあった時間も、すべて、全部が全部、元に戻ってしまうんだ。
(嫌だなあ)
一瞬、視界が赤く染まる。赤黒い植物が、狂ったように踊り猛る。
(手放したくなんか、ないなあ)
そうして宍戸さんはドアの向こうに消えた。
と思った。
ところが宍戸さんは不思議そうな顔をしておれを見つめながら、ドアの前に立ちすくんだままだった。
「どうしたんだ、長太郎」
はあ、とおれは間抜けな返事をした。
どうした、はこっちの質問だと思った。なんだろう、忘れ物でもしたのだろうか。おれはわけがわからないまま宍戸さんを見つめかえしている。すると、彼の視線が落ちておれの手元を見た。
おれも同じほうを見る。おれの右手は、いつの間にか宍戸さんの腕を握り締めていた。
なんだこれは。
なんなんだこれは。
「今の宍戸さんを行かせるわけにはいきません」
おれは一瞬、ぎょっとした。今、流れるように口が勝手に動いた。そしておれが思ったことをそのまま言ったからだ。宍戸さんもぎょっとした顔をしている。そりゃそうだ、こんなことを何の突拍子もなく言われれば誰でもびっくりする。
「な、なん?」
宍戸さんはいぶがしげにおれを見ている。おれは慌てて言ったことを否定しようとした。だけどそれより早く口が勝手に動いた。
「今宍戸さんを家に帰したって、何も事情は変わってはいないじゃないですか。また宍戸さんを同じ状況に放り込むことになるじゃないですか。これじゃあ宍戸さんが家出した意味がありません、そんな状態ではまだ宍戸さんを帰すわけにはいきません」
「・・・なんだよお前、変なことを急に」
「変じゃありません。急でもありません。前からなんとなく薄々感じていたことです」
おれは口をふさごうとした。でも左手は動かなかった。まるで何か巨大なものに縛り付けられているように、微動だにしてくれなかった。それ以上、このおしゃべりな口をのさばらせてはいけない、そう本能が警鐘を鳴らしている。
「もう、気づいているんです」
「何を言って」
「宍戸さんの体中にある、おびたたしい傷」
おれはこの口をふさぎたくてたまらなかった。
「はあ、わけわかんねえし・・・それはお前との特訓のときの痕だろうが」
宍戸さんは、わけがわからない、何を言っているんだこの馬鹿はといった風に言う。
「それ、おれが当てたサーブの痕じゃないですよね」
「そんなこと、どうやってわかるもんか。証拠でもあんのかよ」
「だっておれ、覚えていますから。自分が宍戸さんにつけた傷の位置くらい、全部覚えていますよ」
「・・・」
「背中の右肩近くにある痕はおれのものではない。左の脇腹にある痕はおれのものではない。右腕の三つの痕も、胸に残る二つの傷跡も、首根っこの傷も、そんなもの、おれがつけた傷跡じゃないです。まだまだこんなものじゃないですよね、宍戸さんの傷跡は。なんなら空で言い当ててみせましょうか? 全部、お望みなら」
「・・・」
宍戸さんは驚きに口を開閉させている。立ちすくんで、ただただあ然というふうに目を見開いている。
「な、んで・・・そんな細けえことお前が知ってんだよ」
「・・・」
「おかしいだろうが、そんなん。何で、どうしてそこまで詳しく知っていて、そこまで覚えていやがんだよ」
「そんなこと、今はどうでもいいです。それよりも、聞きましたよ、宍戸さんのお兄さんの噂」
宍戸さんの表情が、ギクリとする。
誰かおれの口を縫い合わせて。これ以上言葉をつむがせないで。
「お兄さん、昨日まで入院していたそうですね」
「な・・・そんなこと、関係な」
「どこを怪我してたんでしたっけ、宍戸さんは知っているんですよね」
「やめろ、もう」
誰か止めて。
「自分の手で、自分の瞳を抉ったっておれは聞きましたよ。原因は、そう、」
「それ以上言うな、もう暴くな」
誰か止めて。止まらなくなったおれを止めて。
「宍戸さんは傷だらけで、そしてそれは学校以外のおれの知らないところで傷は増えていて、そしてお兄さんも同じように傷だらけで」
「やめろ長太郎! それ以上、それ以上言うな! それ以上俺のことを暴かないでくれ!」
ずっと、鈍感なままでいたかった。何も知らないふりをしていたかった。この人の隣で、何も知らないで純粋に笑っていたかった。
「宍戸さん、あなた」
止まって。もうやめて。その先を言わないで。
「あなた親から、虐待されていますね」
ぎゃくたいされていますね。
その言葉が、いやにおれの耳に響いた。
ついに、おれは言ってしまったんだということを、遅れて気がついた。
彼から、一気に力が抜けていく。そして、がっくり肩を落とした。彼は言葉を放棄した。否定も、肯定も、何も意味をなさず、ただ、嫌な風が二人の間に流れていた。
「・・・お前にだけは、知られたくなかった」
「どうしてそんな」
「長太郎にだけは知られたくなかった! 俺の家のなかの地獄をよ、知られたくなかったんだ」
宍戸さんは閉まりかけていたドアを勢いよく開ける。外の明るい夕焼けが、パッと玄関にさしこむ。
「手をはなせ長太郎! 俺はもう、帰らねえといけねえんだ!」
どうしてこの人は、おれの心配を無下にするようなことばかり言うのだろう。
刹那。頭のなかが怒りとも憤りともつかない感情に赤く染まる。凶悪な感情が、凶暴な赤が、わっと底からせりあげる。
「どうしてそんなおれの気持ちをわかってくれないんですか!」
視界が真っ赤に染まって、おれは一瞬なにがおきたのか理解できなかった。
ガツン。
・・・。
・・・・・・・・・?
おれはかたく閉じていたまぶたをあける。
今、なにか不穏な音がしなかっただろうか。なにか、硬いものが硬いものにぶつかる、乾いた衝撃音。
おれの両手は、いつのまにか前に突き出されていた。前ならえのてのひらを、壁を押すように突きだしていて・・・なに? これはなに? おれは今、なにをしたんだ?
ゆっくりと、視線をしたに向ける。
おれはハッと息を忘れた。
そこには、ぐったりと瞳を閉じた宍戸さんが横たわっていた。
彼はドアの鴨居に頭をよりかからせ、無言でうなだれている。ぴくりとも動かない。鴨居に付着している、あの赤い液体は・・・まぎれもなく、宍戸さんの血だ。
おれは思わず後ずさる。頭から血が、サーッと引いていくのが手に取るようにわかった。
「宍戸・・・さん?」
おれは恐る恐る、彼を助け起こす。息はしている。安堵。背中が弛緩する。
だが呼びかけたり、頬を叩いてみても、返事はなかった。完全に気を失っている。
おれはそこでようやく状況を理解した。たぶんさっき、おれはとっさに宍戸さんを突き飛ばしてしまったんだ。そして、宍戸さんは後頭部を鴨居に激突させて・・・気絶した。
おれはそこまで頭がまわったところで、宍戸さんを起こそうとする手を止めた。
いいんだ。これでいいんだ。これで宍戸さんを、正体不明の地獄から遠ざけることができる。宍戸さんが、おれの知らないところで傷ついたり、攻撃されたり、悩まされたり、狂わされたり、そういうことはもうなくなる。
おれはまだ半分開いていたドア
を閉める。蝶つがいのきしむ音とともに、夕焼けの光は細くなってゆく。宍戸さんの顔を照らしていた赤い外の光は、だんだん細くなり、ついには消えた。
+++
おれはとりあえず宍戸さんの体を運んで、ひじかけイスに座らせた。彼を、絶対にこの家から出してはいけない。そんな強迫観念が、おれを行動へとせきたてる。
もしも宍戸さんがこの家から出てしまったら、彼は再びおれの理解の及ばないところで地獄を味わうことになるのだろう。そんなことは許せない。おれの知らないところで宍戸さんが傷つけられているなんて、そんなのは嫌だ。だから、彼が他の誰かから傷つけられないように、おれは宍戸さんを、無理矢理にでも、力ずくでも、ここにとどめておく必要があった。
宍戸さんがどこにも行ってしまわないように、ここに縛りつける。
家のなかには紐や縄のようなものは見あたらなかった。仕方がないのでおれはガムテープを代わりの拘束具にすることにした。外されたり、逃げられたりするのが怖いから、念入りに、何重にもテープを巻き付ける。
宍戸さんの細い手首に。
宍戸さんの白い足首に。
宍戸さんのしまった胴体に。
彼が逃げてしまわないように。
彼を逃がしてしまわないように。
彼がこの空間から、逃れることができないように。
あまりに強く執拗に巻きつけるものだから、宍戸さんの手首から先が青白くなってしまい、おれは何度も巻き直すはめになった。
そして最後に、宍戸さんの目に布の目隠しを。宍戸さんの口に猿ぐつわを、しっかりはめた。
おれは怖かった。宍戸さんから罵倒の言葉をあびせられるのが。宍戸さんから非難の視線を刺されるのが。
こんなことをすれば、おれは徹底的に嫌われてしまうだろうことは目に見えている。こんなことをするのは、犯罪だともわかっている。こんなことをすれば、おれの日常は消えてしまうのだとも、わかっている。
(だけどこれは、宍戸さんのためだから)
嘘。そんな言い方はみんな立て前。自分を安心させる、卑怯な嘘。
罪悪感に心臓がめちゃめちゃにされそうだった。思わず涙がこぼれて、頬を伝う。ごめんなさい、ごめんなさいと、何度もささやく。伝わりはしないと、わかっているのに。おれは薄闇のなか、そっと宍戸さんの額にキスを落とした。
色鮮やかだった世界が、色彩を失ってゆく。
植物が笑っているのか。
ほの暗い心の底で、滑稽だと笑っている。
ずっと、自分のそばにいた赤黒い植物。
不穏な存在だとは、いつもわかっていたのに。
深く暗い黒に汚されて、初めて気づいた。
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