第二章 五分後の世界

【五話 誰が何と言おうとも】

 隣で寝ていた兄貴が、わずかに寝返りをうった。その拍子にずれた毛布を、俺はそっとなおしてやる。俺はいつも朝練があるから兄貴よりも一足はやく目をさます。こいつは朝にめっぽう弱いやつだから、朝はぎりぎりまで寝こけているのだ。
 兄貴は俺と一才しか年が違わないせいか、俺は兄貴に似ているといわれることが多い。その目がとくに似ていると、高一の先輩はよく言う。だが実際をみると、性格はそんなに似てはいない。そんなに、というか、真逆、というほうが適切かもしれない。兄貴は小難しい本とかをよく愛し、体を動かすことはあんまり好きではない。かたや俺は、本なんてもの、あの独特の少しカビ臭い匂いをかいだだけでアレルギー反応がおきそうなほど嫌っていた。兄貴が『罪と罰』とかいう題名だけで重苦しい本を読んでいるとき、俺が理解できないといったふうに兄貴を見ていると、こいつは決まって『亮はまだまだ子供だな』ってガキのようにニヤニヤ笑うのだ。
 その様子といったら、ガキの表情そのものだ。俺はときどき、兄貴が自分の兄貴であることを忘れる。兄貴は俺よりずっと時間にルーズで、自分に甘くて、忘れっぽくて、世話のやけるやつだ。
 穏和で柔和で子供っぽい俺の兄貴は、本当に、俺とそっくりな顔立ちくらいしか俺と似たところがない。俺から見た兄貴は、実の「兄」というよりも、友達に近い存在なのだ。
 本を抱きしめながら恍惚としている兄貴を見ているときなど、本当にこいつが俺の本当の兄貴なのか、本格的に疑わしくなってしまう。

 地上三階の壮大なのか陳腐なのか微妙な高さの景色を仰ぎつつ、俺は膝を抱えて二人きり、ぽつねんとベランダに座っている。陽気な夏の女神が冷酷な冬の女神にバトンタッチするそんな秋の朝、それほど寒くはなかったけれども足の先などがどこか冷えていた。僕はしばらくぼんやりと早朝の気だるい雰囲気に浸っている。もちろん俺は季節のうつろいに思いをはせるほど詩人ではなく、ここにいるのは、単純におそろしい父親が家を出るまでベランダの他に居場所がないだけだった。
 俺のおそろしい父親は室内で俺たちを見つけると容赦なく攻撃してくる。ぶったり蹴ったり殺虫剤をぶっかけたりと完全にゴキブリ扱いだ。俺もさすがに死にたくないので父親がいるうちは家の中に入らない。幸い父親は仕事が忙しいのか早朝と夜にしか姿を見せない。父親が仕事に出るとようやくゴキブリの俺は活動を開始する。
 長年の経験の積み重ねにより、俺はベランダのガラス扉越しに父親が家を出たことを察知することができるようになっていた。玄関のドアが一回開閉するのがGOサインである。
 そんな世間一般の中学生は学習しないようなことを学習しなければ生きていけない家に生まれた俺だけど、なんだか最近ではこの薄幸な境遇にも慣れてしまった。他の家の子供と自分たちを比べるから不幸に思えるのだ。ザンビアかどっかの難民に比べれば俺はよっぽど恵まれていると思う。


+++


 どれほど時間がたっただろうか。そろそろ家を出ないと朝練に遅刻すると、腕時計の針を見て俺はかりかり悩んでいた。今日はまだ一度も扉が開閉していない。父親はまだ家に残っているようだ。父親は真面目な社会人なので平日は休まず出勤するはずなのだが――どうだろう、最近父親は疲れているようだったので有給休暇でもとったのかもしれない。たまにそういうことがあるのだけれど、そうだとするとけっこうまずかった。
 そろそろ朝練に間に合わない時間になってもまだ父親が家にいるということはイコール俺にとっては冒険の始まりで、殴られるのを覚悟して部屋を突っ切るか地上三階からロープアクションを駆使して下まで降りるかしなくてはならなくなる。どちらにしてもけっこうな危険をともなうのでなるべくそんなん遠慮したいが、朝練にはどうしても行きたいし俺が朝練をサボると大迷惑をこうむるヤツがいるので泣き言も言っていられない。
 俺はしばらく鬱々と悩んで、それからこっそりと、体勢をあげて薄暗い室内の様子を観察してみる。室内に明かりはついておらず、仄かに闇が充満していた。
 おや? と俺は思う。父親がいるのなら部屋の電気はきちんとついているはずなのに。
 もしかしたら俺は扉の開閉音を聴き逃したのかもしれない。俺とて人間なので失敗も当然する。ならば扉の開閉音も聞こえてこないだろう。
 だとすれば俺はびびり損である。ほうと嘆息する。
 腕時計を確認するとなかなか穏やかではない時刻だった。俺の時計は正確だから、間違いないことだ。今からでは急がなければ電車の時間に間に合わない。そう考えると本格的にやばい気がしてきて俺は慌ててベランダに放置していたテニスバッグを掴み、がらりとガラスの引き戸を開けて薄暗い室内に入った。乱雑な床に無造作に散らばっている洗濯物を踏み潰し、俺はそれでも音をたてないように忍び足で玄関まで向かう。
 心臓がばくばくする。なんで自宅を通過するだけのことにこんなに怯えなければいけないんだ。室内。いつも感じるが汚らしい。掃除なんてもう何年もされていないんじゃないか。放置されているコンビニ弁当のパック。しなびた鉢植え。くたびれたコートが机に投げだされている。煙草の吸い殻がビールの空き缶に突っ込まれている。腐ったようなすえているような妙な匂いに顔をしかめ、俺は早足でひとりリビングを越えて歩いた。
 どうやら父親はいないようだ。
 その事実に俺は目をつむり安堵する。自宅に親がいないということは町に怪物がいないということと同様で、とても素晴らしいことだと俺は思う。
 そんなことを真剣に考えつつ俺は朝食もとらずに玄関に向かう。腹は減っているが食べている暇がない。というかそれ以前の問題として我が家には食料の備蓄がない。だから俺は朝に食事をとるという習慣はない。父親は主に外食派で、おまけに息子たちに食事を与えようというマトモな義務感が欠落している。親に内緒でこっそり二人でバイトした時に貯めたお金がなければ俺たちはとうに餓死している。ただ餓死までいかないまでも一日に一食なこで慢性的に空腹なのはいなめない。
 俺たちは確かに親とともに住んでいる。学費も出してもらっている。雨風をしのぐ屋根の下で寝ることができるのも父のおかげである。だがしかしほとんど俺たちは独立して自活しているようなものだった。親は俺たちに何もくれない。食事も居場所も愛情ですら。
 そんな彼らが積極的に俺らに与えてくれるものといったら、唯一――。

 がちゃり、と玄関の扉が開いた。
 靴をつっかけて今まさに外に出ようとしていた俺は、硬直する。
 おそろしい父がそこに立っていた。
 ドアノブを掴んだ状態でちろりと俺を見上げ、大柄な父はなんだか曰く形容しがたい殺気のようなものを放った。
「・・・・・・」
 無言で父は薄く微笑して、玄関に立てかけてあった丈夫なコウモリ傘を手に取った。
 俺は激しく混乱する。どうして父親がこんなところにいるんだ。考えろ考えろ考えろ考えろ。考えなければ死ぬぞ。逃げなければ。でも逃げるってどこに――。
 父は手にコンビニの袋をさげていた。見ると中身はコンビニ弁当である。そう理解した瞬間、俺はひとまず父親がここにいる理由だけには思い至った。
 玄関扉の開閉音は一度もしなかった――すなわち、今まで誰も玄関扉を人間は通過しなかったということ。そう考えればあとは直感的にわかる。教師である父はおそらく出張か当直で家を留守にしていたのだろう。そうして朝の早い今まさに帰ってきたのだ。なんて都合の悪い。こんなに悪いタイミングで帰ってくることないのに。
 俺は恐怖にがくがくと震えながら、意味をなさない言葉を口にした。
「父さん・・・」
「・・・・・・」
 父はやはり俺の言葉を黙殺し、竹刀くらいの破壊力はありそうなコウモリ傘をぐわんと振りかぶる。ちょっと待ってくださいそんな理不尽に息子を攻撃するんですかアナタは。
「おい、ちょ――」
「くたばれ」
 強烈な一撃が頭部に炸裂した。


+++


 襲いくる父の猛攻を逃れ、どうにか一つしかない命を守りとおした俺は頭の痛みに涙目になりつつ、俺と兄貴と両親が住んでいるアパートを飛びだし通学路へと歩を進めた。どうして朝っぱらからこんな理不尽な目にあわなければいけないんだ。前はこんなこと、なかったのに。

母さんがベランダから身を投げて首の骨を折って病院に運び込まれて、もう一ヶ月になる。今の俺には、もう母さんはいない。厳密に言えば、まだ体はこの世にある。だけど、もう二度と目を覚ますことはない。植物状態とか、いつかは目覚めるとか、そういう甘っちょろいことではない。母さんの脳は、時間をかけて着実に死んでいった。
それはちょうど、父親と母さんが何ヶ月ぶりの大げんかを始めた頃だった。体格のよい父親に散々攻撃され、一時は意識を失ったと兄貴は言っていた。幸か不幸か、その時俺は部活に参加していて現場にはいなかった。兄貴は母さんの体を揺すり起こして、介抱しようとした。母さんは、全身が傷だらけの痣だらけだった。
兄貴がタオルで傷を冷やそうとしたとき、母さんは目を覚ました。そして突然、跳ね起きた。兄貴も驚きすぎて、反応できなかったとのことだ。母さんは、信じられないほど素早く兄貴の首に手をかけて、きつく締め上げたらしい。何かわめいていたらしい。もう嫌だ、とか、こんなことしたくないのに、とか、意味のわからないことを。兄貴はそのまま意識を失った。母さんがベランダの向こうに消えたのは、その後のことだった。
今でも、母さんがどうしてこんなことをしたのか、わからない。結局下った警察の判断は、精神を病んでいたための自傷行為と、子供に対する暴行、直後、錯乱状態に陥り自殺。結局、母さんがどうしてあんなことをしたのか、わからずじまい。直接会って、話をしたい。どうしてそんなことをしたのか、話を聞かせて欲しい。たった一ヶ月前のことが、はるか昔のように感じる。
 そんな無意味なことをわりと真剣に考えながら色づく紅葉が見える歩道を歩いていると、待ち合わせ場所の交差点に見覚えのある後ろ姿を発見した。落ちついた色の銀髪。少しくせのある髪をゆらゆらと揺らして。着ている服は俺と同じ氷帝学園中等部の制服。衣替えをしたばかりの紺色のブレザーとテニスバッグが朝日を反射してどこか霞んでいる。

 長太郎だ。

 悩みの種であるくせっ毛。人目をひく長身。人のよさそうな、穏やかな表情。
「長太郎」
 もちろん、俺は元気がない彼に呼びかける。
長太郎は驚いたような顔で振り返り、ぱっと笑う。
「・・・宍戸さん。おはようございます。今日は遅いですね」
「あぁ、待たせて悪かったな」
 俺はなんとなく相槌をうちながら彼のとなりに並ぶ。
 時間は朝練の時間ぎりぎりといったところ。急ぐほどではないが、ゆっくりもしていられない。いつも余裕をもって登校している俺にとっては遅い時刻だ。俺たちはいつも学校の最寄り駅近くの交差点で待ち合わせをして、そこから一緒に歩きで学校へ到着する。大抵は長太郎に後ろから声をかけられるので、今日はその逆だったというわけだ。
 長太郎はにやにや笑っていた。
「どうしたんですか、今日は。宍戸さん、寝坊っすか?」
「・・・あぁ」
 俺は曖昧に肯定する。
 俺は長太郎には――長太郎だけにではなく世間一般の人間には――我が家の、おそろしい修羅場的実情を語らないことにしている。同情されるのが嫌だぜッとかそういうええ格好しい理由ではなく、親が児童虐待で逮捕されたりしたら確実に俺の生活が壊れてしまうからだ。考えてみれば親が断罪されることにメリットなんかあんまりない。理不尽な暴力はなくなるかもしれないが俺は家も学費も保護者も失うことになる。世間の憐憫やら嘲笑やらから逃れるために家もかえなければいけなくなるだろう。そうなれば、俺は大切な長太郎と別れなくてはいけない。平穏と親友を俺は喪失する。
 そんなのは嫌だ。
 なんにも知らない長太郎は呑気に笑って言う。
「宍戸さん、顔色悪いっすね。ちゃんと朝御飯食べてますか?」
「ん、いや」
「食べなきゃだめですよ。朝御飯は体をつくる基礎ですからね、食べたほうがずっといいですよ」
長太郎は、そういう的はずれなことを言って微笑む。
「おう。そうだな、お前の言うとおりかもしんねえ」
つられて俺も、少しだけ体が軽くなった。
 殺伐とした家で腐食した俺を、長太郎の声が浄化してくれるような感じがする。何も知らないからこその純朴さは、確実に俺の心を救ってくれている。彼の隣にいることを幸せに感じられる。それは、ドロドロになった俺の心の確かな支えになっていた。長太郎は、俺にとってなくてはならない存在なのだ。
 そんな彼のとなりにいるのは、わりかし幸せだと思う。

 だから俺は微笑んでいる。
 ただ素直に。
 ただ愉快にまかせ。