一話【空腹?】


輸血の血ではだめなのだと、ニュースで聞いたことがある。
その病気は人から人に感染して、発症した人は人の血液しかおいしいと感じなくなってしまう。しかも輸血用に保存されていた血を飲んでも意味はなく、人の肌越しから直接血を飲まないといけないらしい。血を飲むことによって、体の中を流れている血以外の人間の大切な何かを摂取しているらしかった。
感染ルートはまだはっきりしないこの病気は恐ろしいスピードで世界をおおいつくし、おれの学校ではすでにほとんどの人がこの病気の陽性だと診断された。ただ、どうも抗体を生まれつき持っている人にはどうあってもうつらないらしく、おれこと鳳長太郎の身の回りは吸血病の人たちであふれているのに、おれは今までこの病気にかからずにいた。
吸血病のそれ自体は死に至る病気じゃない。お腹が減れば、まずいけど普通の固形食料を食べればいい。我慢しようと思えば、血を飲まなくたって生きれるには生きれるのだ。
吸血病での死者は今のところいない。ただ、吸血病による死者は、いるらしいけど。

「鳳ー、ちょっとだけ血ぃくれる?」
部活の最中に、慈郎先輩が言った。
「いいですけど、いつもなら忍足先輩からもらっていたのに急ですね」
おれは片付けの手を止めて言った。日が長くなった最近では部活が終わった後も空は暑く、じりじりと容赦なく肌を焼いていく。ボールの入ったカゴを足元に置いて、ひたいの汗を拭った。
「あいつはダメだ。さっきもらったらとてつもなく血がまずくなってた。たぶんあいつにもうつったんだなー、吸血病」
と言うと、慈郎先輩はからから笑い声をあげた。
「たぶんオレがうつしちゃったんだ。あーあ」
そう言って、にんまりした。慈郎先輩がやけに陽気なのは不機嫌の証拠。彼はだいぶ前から吸血病にかかっている人間の一人で、そのせいか今では他人に血をくれと言うことになんのためらいもなくなっている。
吸血病にかかっても特に歯の形が変化するわけではないから、血をあげるためには手とかに新しく傷をつくらなければいけない。恐ろしいことに慈郎先輩はそのことを考えて、清潔で鋭利なカッターを常にポケットにひそませているのだ。
おれは右手を差し出して、手の平にできた一本の新しいかさぶたをはぐように傷をつけてもらった。
「ほいじゃ、もらうね」
こぼれそうになった血を舌で追いながら、慈郎先輩はちろちろと傷口をなめはじめた。血はそんなにどばどば出ているわけではないけど、傷口に舌がふれるたびに体が少しずつだるく重くなっていく。おそらくこれは貧血によっておきるだる気ではない。傷口を流れる血をとおして慈郎先輩が、おれの目に見えない何かをどんどん嚥下していく音がする。
「うん。ありがと、ごっそーさーん」
慈郎先輩は口のはしについた血を拭いながら言った。お腹がいっぱいになったせいかどこか眠たそうな目をしている。
そのすぐ後に集合がかかったので、おれと慈郎先輩はふらふらと歩きだした。きつい初夏の陽射しが目に痛かった。夏の大会まであとわずかだから、こんなふらふらしてはいられないのに、悲しいかな体に力がはいらなかった。おれはとほほ、と思っていた。

大会初日まであと二週間を切ったテニス部は、全体的にみんな殺気立っている。特にレギュラーは、初戦の相手が青学だということもあってつねにイライラしていた。イライラすると、余計に血が欲しくなるらしい。昨日までそんなときはおれと忍足先輩がレギュラーの人に血を飲ませてなんとか落ち着かせていたのに、どうも困ったことになった。総勢人数二百人を越える氷帝テニス部でさえ、吸血病にかかっていない人は今やおれと跡部部長だけなのだ。部長から血を飲ませてもらうなんてことは、その、いろいろな理由から考えて不可能なので、必然的に、テニス部で血を飲ませてあげられるのはおれだけになってしまった。

部活が終わってみんなが帰っても、おれにはやるべきことが残されていた。それはもちろん鍵当番なんて生易しいものじゃなくて、もっと苛酷で、つらくて、やり甲斐のある仕事だ。
一度は片付けたボールを倉庫から出してきたときには、すでにコートにあの人がたたずんでいた。
「鳳、おせぇぞ」
おれをにらむと、宍戸先輩はいきなし怒鳴りつけてきた。
彼とはこの間から、こういう時間に練習に付き合うことになっている。『特訓』という名の夜間練習。練習内容はいつも同じで、おれが打ったサーブを先輩が素手でキャッチするというもの。サーブなんて、まともに頭にぶつかりでもしたら大怪我につながるようなものなのに、それでも彼は頑固に立ち向かっておれにボールを要求してくる。そんなんだから、練習をはじめてものの数十分で彼の体は血だらけ傷だらけあざだらけになってしまう。こんな痛々しい姿、おれはいつもまともに直視できないけれど、だからといって練習をやめたいだなんて弱気をはくのは、宍戸先輩にたいしてとても失礼なような気がしていた。痛くても辛くても苦しくても立ち上がる宍戸先輩に、見ているのがつらいので練習に付き合いきれません、だなんてとてもじゃないけど、言えない。痛いのはいつだって宍戸先輩なのであって、おれはただサーブを出しているだけ。それはどこまで行っても変わらないのだ。
「ストップ、ちょっとそこのタオル取ってくれっか」
先輩に言われて、おれはベンチにかけてあったタオルを取って渡した。
宍戸先輩はそのタオルでゴシゴシと血を拭いはじめた。その執拗さといったら、親の敵のように嫌悪をこめた手つきだった。
「嫌いなんですか? 自分の血が」
おれはついでに水分補給をしながら言った。
「当たり前だ。ずっと自分の血の匂いがまとわりついてて、しつこくて、気持ちわりいんだよ」
「先輩も吸血病なのに」
「あのなあ、自分の肉を好き好んで食うやつがいねぇのと一緒だ。自分の血の匂いなんざ、吐き気がすんだよ」
彼はイライラと吐き捨てた。彼もまた気が立っているらしい。
「先輩」
おれは言った。
「おれの血、いりますか」
彼はゆっくりふりかえると、おれを見た。いや、おれの肌の薄いところを、凝視した。
「……いや、いい」
彼は視線を固定したまま言った。強烈な視線に、ぴりぴりと首筋が痛む。
「宍戸先輩、今だいぶイライラして疲れているんでしょう。たしか吸血病の人が人の血を飲めば、体力の回復がすごく早いって、おれ聞いたことあるんです」
「それでも、なんつーか」
宍戸先輩は言った。はっきりしない態度で、なんだか悩んでいるようだった。
「一度飲みだしたら、止まんねえかもしれねえし」
「なんで?」
おれはうっかり素直に聞いてしまった。
「……腹、減ってっから」
宍戸先輩は、少しあいまいに言った。
おれはコートを彼のもとへと走り、彼の目の前に立った。
「だったら、なおさらもらってください。そんなお腹が減っているままで練習しても、効率悪いっすよ」
と笑って、おれは手に持っていたカッターで、手の平を切ろうとした。
「……いいんだな」
宍戸先輩の手が、おれの手をおさえた。先輩の手、冷たいな、と思っていたら、いきなり彼の歯が、かちりと鎖骨にぶつかった。ぞくっと変な感覚。背中を這う変な感覚に思わず身震いしそうになったら、がぶりといきなり首元を噛まれた。
「う、あ」
だがそれだけでは皮は裂けない。吸血鬼のような歯を持ち合わせていない彼の人間の歯は、噛みついただけで首元に傷をつくることはできなかった。
彼は前歯で、そっと首の皮を薄く噛む。
「痛ぅ……」
ぴりり、痺れに似た痛みが首筋を走る。今度はあっさり皮膚が破けてくれた。
小さく痛い傷口へと、宍戸先輩は舌を這わせた。熱くざらざらした舌がくすぐったくて気持ちいい。最初は、やさしくなでるように傷口をなめ、次第に強く吸いつき、そして、噛みつくように激しく、おれの血を飲み下してゆく。
力が、恐ろしい速度で流れるゆく。穴のあいた風船のように、みるみるうちにしぼんでゆく。それを恐い、と感じはしたが、どうも彼を止める気にはなれなかった。なんでそう思ったか説明できない。このままの勢いだと、彼はおれが死に至るまで飲みつづけるかもしれない。おれがどの程度で死ぬのか知らないかもしれない。そう思って止めようとした。でもできなかった。なんだか、邪魔をしたくない、と頭のどこかで思ってしまって、彼を突き放すことができなかった。
頭がぼんやりする。視界がだんだん淡くなり、体がふわふわと軽くなる。やんわりと強烈に眠気が肩にかぶさってきて、ずぶずぶと意識が深く沈んでいくかんじが気持ちいい。
からっぽになっていく自分。満たされていく彼。自分のからっぽになった部分が彼を満たしているのだと思うと、なんとも言えない嬉しさがこみあげてきた。
強烈な喜びが脳髄を支配して、
おれの意識は、そこでトプンと眠りに沈んだ。

遠くのほうで自分の体がどさりと倒れる音を、聞いたような、気が、し、た……。



07,10,09:UP