三話【平和?】
あの日から、ずいぶんたってしまったように思える。
宍戸さんは髪をばっさり切って、今では夏が終わって、おれは来年のために新しいダブルスになり、宍戸さんと会うことはなかなかなくなってしまった。だけれど、宍戸さんとおれはなぜだか先輩後輩としての縁は切れないで、帰り道に一緒になったり、たまに一緒に遊んだり、昼練のときに一緒になったりと、細く長く関係は続いていた。
彼はだいたいいつもお昼は弁当を持ってきて、昼練が始まる前に部室でかきこむように食べつくす。おれはと言えば、のろのろちまちまと弁当を食べるものだから、一緒に練習をするのにいつも彼を待たせてしまう。あんまりおれが宍戸さんを待たせるのが多くて、それがたいへん申し訳なくて、妥協点として見出だされた待ち合わせ地点は、コートの横にある壁打ちに使う校舎の白い壁の前だった。
そして今日も、彼は白い壁に向かって壁打ちをしていた。
秋になった今は動くのにはかなり快適で、ひんやりする風を気持ち良さそうにあびながら、彼は透明な汗を流していた。
「遅ぇぞ長太郎」
おれを見てにっと笑うと、宍戸さんはぱっと手をあげた。
「さっさとコートに入ろうぜ。もたもたしてっと、練習時間が少なくなるだろ」
その笑顔があまりにエネルギーにあふれているものだから、おれもつられて、
「はい、お待たせしてすいませんでした」
と笑った。
彼はおれより、テニスにかけている情熱はとてつもなく大きかった。いつもばりばりおれをひっぱりまわして、練習に練習を重ねた特訓に付き合うよう首根っこをひっ掴んでくる。
それ、その健全さが好きで、あこがれで、まぶしくて、ずっとこの人について行きたいと、おれに思わせるほど、彼の表情のひとつひとつが、とても好きだった。
だけれど、たまにふと、淋しい考えが頭をよぎることがある。
あの特訓のときの暗いテニスコートで、この人が欲しかったのは、おれ以外の血でもよかったのかな。もしも特訓に付き合う人がおれじゃない人だったら、その人が倒れていたのかな。
彼の足元に、自分とは別の人が倒れている。そんな暗い光景が頭に湧いてくると、おれは急に自分が立っている地面が不確かなものに思えて、ひどく不安定な気分になった。
そういえばおれの見る限り、彼はあの日から誰からも、一滴たりとも血をもらっていなかった。血を飲まないでずっと我慢しているのは、かなり辛いことなはずなのに、彼はあの日から一度もおれに血を求めてくることは、なかった。
「いりますか?」
コートが空くまで待っているとき、おれは突然言った。あまりに突然すぎて、彼ははぁ? と首をかしげて『何をわけのわからないこと言ってやがんだ』と言いたげにおれを睨んだ。
「おれの血、宍戸さんいりますか?」
「なんだそういうことか。話がいきなりすぎてびびったし」
と言って彼は自分の短い黒髪をがしがしかいた。
「……いらねぇって」
彼は確固たる声でそう告げた。
そのとき、ちょうどコートに空きができて、宍戸さんとおれはコートへと入っていった。
「歯止めが効かないかもしんねぇってのに」
ぼそぼそと低いその言葉は、あまりに小さすぎておれの耳には届かなかった。
昼練が終わるのは始業のチャイムが鳴る十分前だ。そのときに、ベンチでぽかぽか寝ている慈郎先輩を起こすのは、おれたちの日課になっている。この日もおれは熱い熱いとシャツをバタバタさせながら、慈郎先輩の体をゆすり起こしていた。
「慈郎先輩、もうすぐ授業が始まりますよ、起きてください」
「ぬー? 朝ぁー?」
「はい、朝です。起きてください」
「うそーつきー。昼でしたー」
寝ぼけてわけのわからないことをぐしゃぐしゃ言う慈郎先輩は、陽気にそう言った。
慈郎先輩は体を起こすと、ニッコリ笑って言った。
「ねー、ちょーたろー。おれさ、今寝覚めでしょ? だからね、気分サイコーに悪いんだー。わかる?」
かわいく首をかしげている彼はあまり不機嫌そうには見えないけどな、とおれは思ったのだが、彼の眼光が一転してキラリと冷たく輝いたのに、おれはどきりとした。
「おれね、ちょーたろーにあうと、いつもいい匂いがしてお腹が減っちゃうんだ。きみの肌の薄いところからね、甘い血の匂いがぷんぷんするんだよねー」
じり、じりりと慈郎先輩はつめ寄ってくる。
「……先輩、おれの血、欲しいんすか?」
「そうだよ!よくわかりました!やったーマジうれCー!!ちょーたろー親切ー」
キャーキャーはしゃぎながら、慈郎先輩はパタパタと手を振っている。寝覚めなのにこんなにハイテンションなのは、きっと相当不機嫌だからなのだ。おれは少しぞっとした。
「それじゃ先輩、カッターを貸してくれますか」
「カッター……」
「はい、傷口をつくりますから」
「……」
彼はふと、ためらった。
「ねえ、今日はカッターを使わないで、やってみない?」
「へ?」
「ふと思ったわけよ、首筋に直接噛み付いて飲む血の味って、また格別な味がするのかなあ? って」
慈郎先輩は、くるりとふりかえった。
「ねえ、宍戸。そこんとこ、どうなわけー?」
「……」
宍戸さんは、なぜか苦い顔をして慈郎先輩を睨みかえしていた。
その睨み合いは、ちよっと長すぎるほど、長く続いた。理由もわからないのに空気が鉄のように重たくて、いたたまれなくて、おれは二人の間からはやくさようならしたい気分だった。
「ま、今日はいいや。ちょーたろーからは普通におててから血ぃもらいましょうか」
慈郎先輩はそう言うと、にぱっと笑ってテキパキとおれの血を飲んだ。
その時も、宍戸さんは始終恐い顔をしていた。あのイライラとした表情は、なかなか忘れがたい。彼の緊張が空気を伝って、おれの背中をぞくりとさせた。
07,10,09:UP
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