一話【遅咲きの桜】
スズメかなにかが鳴いている。
俺は自分の部屋のベッドの上で、薄く目を開けている。まずい。非常にまずい。時計はとっくに家を出ないとまずい時刻を示している。どうやら昨日寝るときに目覚ましをかけ忘れたらしい。そういえば俺は寝巻きじゃなくて制服を着たままだ。と言うことはつまり、俺は疲れ切って横になって休んでいるうちに、いつの間にか寝落ちてしまったということなのか。まずい。これはとってもまずい。時間はあと十分後に発車する電車に乗らないと、部活の朝練に遅刻してしまうほど逼迫していた。別に朝練は自主練習の一環だから休んだとしても誰も怒る奴はいないのだが、一人、大迷惑をこうむる奴がいるのだ。長太郎。鳳長太郎、俺の後輩で、ダブルスの相方で、ここ最近朝練の相手をしてもらっている奴。俺が勝手に朝練を休んだり遅刻したら、一緒に練習しているあいつが迷惑する。それは人から練習量を奪うことに等しく、それは俺にとって相当な重罪なのだ。
俺はベッドから跳ね起きると、教科書を昨日のと入れ替えていないスクールバックをつかんで部屋を飛び出す。俺の中で勉学の優先順位は部活よりも低いのだ。リビングを通過するとき、母親が「朝御飯いらないの?」とか悠長なこと言っていたけど無視。玄関にあった鍵をつかんで兄貴から勝手に自転車を拝借する。ちりん、と自転車の鍵が鳴るのに気づき、「こら亮、俺の自転車盗るな!」と後ろから叫び声がとんできたが、当然無視。「お弁当もいらないの?」とかムカツクほど悠長なことを言ってる母親を至極当然に聞き流し、襲いくる兄貴の言葉の猛攻を逃れ、俺は人がまだ少ない住宅街を自転車で駆け抜けた。
本気で自転車のペダルを漕いだおかげで、ドアに手を挟んでこじ開けながらも奇跡的に電車には間に合い、俺はなんとか遅刻の境界線上に立つことができた。デッドラインの上はまだ死ではない。ギリギリ『生きている』の内だ。俺は安堵する。背中が急激に弛緩した。この電車に乗れたということは、どうにか朝練の時間には間に合いそうだ。朝飯を食べていないので、すでに体力の大半は消費していたが、電車に揺られ、ゆっくり歩いて学校に行くうちに体力は回復しているだろうと思う。電車は一本乗り過ごすだけでどんなに足掻いても覆せない遅刻が決定してしまうが、ちゃんと間に合うやつに乗ればゆっくり歩いたとしても間に合うんだ。ひとまず胸をなでおろして、ほうと嘆息する。
電車が止まったのは、そのときだった。
何の前触れもなかった。大きく車体が揺れたかと思うと、電車は慣性につられて前後し、ガタンという音とともに完全に停止し沈黙してしまった。
困惑にざわつく車内に、アナウンスが「先行車両の扉に鞄が挟まり、只今車両点検中です」といった内容の言葉を告げる。いつ復旧するか、目途は立っていないそうだ。ちょっと待ってくれ。それはあんまりにあんまりだ。せっかく間に合ったと思えば、こんなことになるのかよ。
「・・・ちくしょう」
短い髪の毛をがしがし掻いて、俺は意味を成さない言葉を口にした。
俺に取り憑いている疫病神は今日も絶好調だった。
+++
結局、電車が復旧したのは、止まってしまってからだいぶ後のことだった。授業に遅刻はしないものの、朝練の時間はもうなかった。普段なら、この時間帯に朝練を引き上げてるような、微妙な時間に俺は学校に着いた。
くれると言うのでなんとなく遅延証明書を受け取りはしたが、こんなものに意味はない。この紙切れがあるからって時間が戻るわけでもないし、ましてや、俺がアイツを待たせて無駄にしてしまった分の練習量が戻ってくることもない。
謝る誠意があるなら、遅延を証明してくれるよりも、その補償の方をしてほしい。俺の時間を返せ鉄道会社。俺たちの、貴重な練習時間を返せ。
そんなことをわりと真剣に考えながらちらちらと葉桜が見える校内の歩道を歩いていると、正面に見覚えのある後ろ姿を発見した。落ち着いた色の銀髪。少しくせのある髪が揺れる。着ている服は俺と同じ氷帝学園中等部の制服。紺色のブレザーとテニスバックが朝日を反射してどこか霞んでいる。
真面目そうで頼りがいがありそうな、広い後ろ姿。
長太郎だ。
俺はすぐに理解する。
俺が長太郎を見間違えるわけがない。
最近ぐんぐん伸びている背丈。会ったころから変わらぬ髪型。
「長太郎」
もちろん、俺はなんだか元気のない足取りで歩く彼に呼びかけた。
長太郎は驚いたような顔で振り返り、口を開く。
「・・・宍戸さん」
長太郎。
宍戸さん。
いつもと変わらぬ互いの呼称。
語呂がいいとか、呼びやすいとか、そんな理由だったと思う。特訓しているころぐらいから、そんな適当で曖昧な理由で呼び始めた名前。
長太郎は俺の姿を確認すると、表情を緩ませて幸せそうに笑った。
「宍戸さんだ、おはようございます。今日は練習に来ませんでしたけど、どうしたんですか?」
「あぁ、本当に悪い。言い訳なんざしたかねぇけど、電車が止まったせいで遅刻したんだ。悪いな、練習できなくって」
長太郎は首を横に振ると、呑気に笑う。横に並びながら、俺たちは昇降口へと歩く。時刻は登校可能時間ぎりぎりといったところになっていた。急ぐほどではないが、ゆっくりとしてもいられない。
「宍戸さんが遅刻なんて珍しいですね。いつもの時間に道を歩いていなかったから今日は休みかと思いましたよ。かるく心配したんですからね」
「悪い」
「謝らないでください。それにしても、どうしたんですか、いつになく顔色が悪いですよ。調子良くないんですか」
「良くはない」
「朝ちゃんと食べてますか?人間の健康の七割近くは朝御飯に左右されるんですよ」
「食ってねぇ」
「食べなきゃ駄目っスよ。そんなんで午後までもつんスか」
「気合いでどうにかする」
「また無茶苦茶なことを言う。宍戸さんの悪い癖は何でも気合いと根性でどうにかしようとするところですね。そんなことをしていると、いつか体を壊しますよ」
「大丈夫だって」
「もう。大丈夫じゃなかったらどうするんスか。俺は本当、宍戸さんが心配ですよ」
長太郎は呑気に笑う。
そういえば、隣にこうして長太郎と並ぶと彼の背が自分より高いことに気づく。前はもっと自分の方が高かったような気がした。ラニングや基礎練習を辛い辛いと泣きわめく長太郎を、俺が上から頭を掴んでさっさと走れと号令をかけていた覚えがある。いつから彼は俺より、大きくなってしまったのだか。時間の経過の速さを、なんとなく実感してしまう。それは俺を複雑な気持ちにさせたのだ。
時間は残酷に平等に流れていく。
時間はやさしく平等に流れていく。
それは決して止まることはないし、もちろん戻ることもない。ついつい忘れがちなことだが、そのことを常に念頭に置いておかないと、必ず後悔する日がくる。俺はそのことを、なんとなく理解していた。
そんなわけでひとまず俺は長太郎の隣にいる。
彼が語る下らない話に適当な相づちをうつ。
長太郎は、サーブの調子が悪くて朝練中は全然入らなかった、俺が横でアドバイスを入れてくれなかったからどこが悪いのか全然わからないと、プリプリ不機嫌そうに語ってた。
そんな彼の隣にいるのはわりかし幸せだと思うのだ。
だから俺は微笑んでる。
ただ素直に。ただ愉快にまかせて。
+++
過去を変えることはできないが、
未来を変えることはできる。
それは希望であり、
絶望でもある。
+++
その日の昼休みのことだ。
「宍戸さん?」
ベンチにへたり込んで完全に死んでいた屍の俺を呼ぶ声がした。
「宍戸さん。どうしたんスか、お昼ですよ」
「お昼」
短く応えて、俺はゆるゆると顔を上げた。もちろんそこには不思議そうな顔の長太郎が立っている。手にはかなり大きめの弁当箱が握られている。いつ見ても一人分の大きさに見えない。長太郎はとにかくよく食べるのだ。だからこんなに身長が伸びたのかと、うなずけるくらいよく食べる。
俺は部室の壁に寄りかかりながら呻くように言う。
「はらへった」
「生き物だから当然ですよ。朝も食べないで昼も食べないでもお腹が減っていないとしたらそれは死体です。宍戸さんは死体じゃないからお腹がすいて当然。それにしても、お昼ご飯はどうしたんですか?いつもはお弁当を持ってきてるじゃないですか」
「ねぇよ」
「じゃあ食堂か購買かには行かないんですか?」
「財布忘れた。だから昼飯抜き」
「それは自殺行為ですよ。育ち盛りが朝昼の食事を抜くなんて、死に行くようなものじゃないッスか」
いちいち物言いが派手な奴だ。
「・・・」
だが俺は特に反論をしない。するだけ無駄にエネルギーが消費されて更につらくなるだけだった。
それにしても、昼練習をしようとどうにかこうにか部室にきてみたものの、空腹で動けなくなってしまったなんて俺もなかなか格好悪かった。俺の体内電池は部室に着くと同時に切れて、まったく動けなくなってしまったのだ。朝練ができなかった分の遅れを取り戻すつもりでいたのに、これじゃあ意味がない。
「宍戸さん・・・」
ほとんど死んだような顔の俺を見て長太郎が心配そうな顔をする。
いつも呑気に笑っている彼のそんな『ちょっと悲しい顔』に俺は弱い。どう対応していいのかわからなくなる。そんなわけで俺は長太郎から目を逸らした。
長太郎はじぶんの弁当箱を握ったまま硬直しているようだ。
「・・・朝も食べていなくて、大丈夫ですか?餓死しちゃいますよ」
「あぁ」
俺は適当に相づちをうつ。
たぶん餓死することはないと思うが、さすがになにも食べないでいるのは辛い。
人間の三大欲求、その一つを押さえ込んでいるわけだし。
俺はひたすらに腹の虫の鳴き声を聞かないフリしてテニスのことについて思考することにした。欲求を押さえ込む時には関係のないことを考えるのが効果的だ。
硬式テニスボールと軟式テニスボールの色の違いには理由があるのだろうか。硬式のボールの黄色は、見やすいからとかいう理由があるから頷けるのだが、軟式ボールが白である理由はわからない。いや確かに、白いボールも見やすいっちゃあ見やすいのだが、黄色に比べて暗がりの中では・・・。そもそもボールの色は何を基準にして、何の優劣で色が決まるのか・・・。ていうか、そのことを決めるのはいったいどこのドイツなんだ。世界各国のテニスプレイヤー?評論家?あるいは・・・。
長太郎はしばらくそんな俺を見つめて決心するようにこう言った。
「宍戸さん、食べていいですよ」
「ボールを?ボールは無理だ」
「誰がボールの話なんかしてますか。なにかろくでもないことを考えていたんですね」
呆れたように長太郎は苦笑する。
「そうじゃなくて、俺のお弁当ですよ。宍戸さんお腹すいてるんでしょ、俺はあんまりすいてないから・・・食べて下さい。ていうか食べて欲しいです。冷凍食品ばかりですけど」
「悪いよ」
俺は慌てて顔を上げて長太郎の申し出を遠慮する。さすがに誰かに施しを受けるほどに落ちぶれちゃいないぞ俺は。
「いいから食べてください。俺は困っている宍戸さんを見ると助けたくなる人なのです」
激しく拒む俺に長太郎はぐいぐいと弁当箱を押しつけてきた。美味しそうな匂いが胃袋を刺激する。テニスボールに相殺されていた空腹感が蘇ってくる。ざわざわと這い上がる虫のように、俺の胃袋を飢餓感が浸食していく。止まらない。
「・・・」
結局、俺は長太郎の勢いと本能の欲求に負けて弁当箱を受け取ってしまった。二段構成で、一段目にはふりかけのかかったご飯、二段目には冷凍食品中心のおかず。冷凍食品が中心にしては彩りもバランスも整っている上、すごく美味しそうだ。中学生が昼に消費する弁当にしてはけっこう凝っている。少なくとも、俺の母親が作る弁当よりは豪勢な内容だ。
「・・・」
戸惑っている俺に、長太郎は呑気に笑って言う。
「遠慮しないで食べてください。俺と宍戸さんの仲じゃないですか。困った時はお互い様。それに・・・本当に俺、そんなにお腹すいてないですからね」
言い終わると同時に、彼のお腹でグゥと腹の虫が鳴いた。
長太郎はすぐに真っ赤になった。
彼は俺の大切な後輩だ。
+++
弁当をほおばる俺を、長太郎は無邪気な笑顔で眺めている。自覚しないまでもガツガツと俺は美味しそうに弁当を食べており、それが長太郎には嬉しかったようだ。俺はなんとなくそんな長太郎の視線が照れくさかったのだけど、まるで数カ月ぶりの栄養補給をするみたいに唐揚げやらプチトマトやらを噛みしめて食べた。すごく、すごく美味しかった。
「うまい」
「よかった。うちの母親も喜びますよ」
長太郎もとても幸せそうに笑っている。なんだろう、この弁当は長太郎の母親が作ったらしいが、自分が誉められているようで彼は誇らしいのかもしれない。
俺は甘く焼いた卵焼きを箸でつまんで長太郎に示す。
「特にこの卵焼きが絶品。すっげー美味しい」
「えへへ」
長太郎はやはりとても幸せそうに笑った。
「そうでしょう。それは苦労したんですよ。塩と砂糖の混ぜ加減がむずかしくって」
「・・・ん?」
今なんか、長太郎の言葉に何か違和感があったような。
長太郎はしかし違う話題を始めた。
「そういえば、宍戸さんの学年に転校生が入ってきたんですよね?」
「そうだっけ」
「そうなんですよ。知らなかったんですか?宍戸さんはやっぱり世間のウワサとかそういったものに疎い人ですね。・・・まぁそれはいいとして。俺、今日の朝練のときにその人の後ろ姿を見かけたんスすよ。その人すっごくテニスがうまくて、ビックリしましたよ。たぶんすぐにでもレギュラー入りできるくらいに、高い実力の持ち主でしたね」
「へー」
長太郎の言葉に、俺は極めてやる気のない返事をした。
気づいたら俺は二人前くらいはありそうな長太郎の弁当を残さずたいらげてしまっていた。俺は相当空腹だったらしい。
「ありがとな長太郎、美味しかったぜ。お前、意外と料理作るのうまいんだな」
米粒の一つも残さずにたいらげた弁当箱を彼に返した。言葉の意味が少し理解できなかったのか、長太郎は目をパチクリさせて、そして、ひどく狼狽した。
「え、あ、何を、これは・・・そう、うちの母親が作ったんですよ?」
「長太郎」
俺はまっすぐに長太郎を見つめた。
本当に、変なところで隠し事をするようなやつなのだ。素直に、自分の弁当は自分で作っているのだと言うのが恥ずかしかったらしい。まぁ、わからなくはないけど。
長太郎はすぐに紅潮して白状した。
「な、なんで、なんでわかったんですか?」
「ん、やっぱりなんだかんだで付き合い長いし。以心伝心ってやつかな」
俺は深い意味などなしに、何気なく言った。だが長太郎はその言葉にひどく狼狽して、顔を熱い鉄のように赤くさせた。
「あーもう。本当に。変なところで鋭いっスよね、宍戸さんって」
困ったように頬をかく長太郎を見て、俺は気まぐれに彼の銀髪を乱暴になでる。
「ありがとな、長太郎。ほら、昼練いこうぜ」
+++
俺の後輩鳳長太郎はむやみに頑固な奴で、何事も徹底的に追及しなければ気が済まないという厄介な性分を持っていた。真面目というのか、神経質というのか、いや・・・やっぱり頑固というんだろう。どんなことでも上から下まできっちり把握したがった。
一時期、長太郎は料理に凝ったことがある。サンドイッチがうまく作れないからという意味不明な理由での奇行だったが、やはり頑固な彼はそんな一品の料理にすら力を惜しまず心血を注いだ。料理の本(サンドイッチ特集)を三冊ほど購入し、母親やら祖母やらから料理法を学び、それはもう、将来サンドイッチ専門の喫茶店を開きますと言わんばかりに生真面目にサンドイッチばかり作った。妥協というものができない奴なのだ。不器用なまでに一直線。道がそこにあれば終点まで止まらないというのが鳳長太郎のモットーだった。それは彼の長所だし、俺は彼のそんなところに好感をもっていた。
だが、ただひたすらに突っ走っていて疲れないのだろうか。途中で倒れたりしないのだろうかと気が気ではなくなる。かくいう俺も、昔、真っ直ぐ突っ走っている最中大きく転倒して、二度と立ち直れなくなりかけたことがある。
しかし、長太郎は俺が思うよりもずっとたくましくできていた。俺が見る限り、彼は一度も転倒したことがなかった。俺としては、長太郎が走る道の先に崖やら落とし穴がないことを願うだけである。きっと彼は目の前に奈落が見えても止まることをしない。長太郎にはブレーキが存在しないのだ。
だから俺は、長太郎が心配でならない。
今まで長太郎は特に失敗することがなく暴走することができたけれど、これからもそうとは限らない。この世界には崖やら落とし穴がたくさんあると俺は知っている。なので足元を見ないでひたすらに走っている長太郎を見ているとき、ハラハラして冷静でいられなくなる。狩人に猟銃で狙われている小鹿の映画を見ている感じだ。
+++
テニス部の午後の練習が終わり、砕け散った俺は歩道の植木の根本にへたりこみ、自分の部品を探していた。疲れた。とても疲れた。ひどく疲れた。体はとうにバラバラだ。足も手もほとんど感覚がなく、意識は茫漠としていた。足の筋肉がピリピリと張りつめ動かすと鈍くだるい感覚がある。
俺は疲れ果てていた。
ぐったりと、ジャージ姿のまま木の根本で体力の回復を待っている。他のみんなは着替えるためとうに部室に入っていってしまった。
朝の遅れを取り戻すため、いつものより練習量を増やしたり、休憩時間もコートに入ったのは、少しやりすぎだったかもしれない。休憩時間も削るというのにはさすがに無理があった。俺の全身は、まんべんなく死んでいた。
そういえば、例の転入生が部活を見学していると聞いたが、結局今日はそいつの姿を見ていなかった。
転入生について、ことあるごとに『親戚かなにかですか?』と聞かれたのだが、あれは一体なんだったんだろう。通りすぎる人が、口々に質問してくるのだ。俺の親戚が近くに引っ越してきただなんて話、親からは聞いていないし、そもそも俺には中学生のいとこも親戚もいないのだ。
すでに空は光を失っていた。太陽も月もない。雲っているのだ。野暮な黒雲はむらむらと広がり、星も月すらも隠している。夜空にはただ暗闇があった。
暗闇のなかで、遅咲きの桜が泣いている。葉桜の並木の間で、一本だけ、浮き出るように見事な桜吹雪を舞い上げていた。暗闇のなかで見る桜はどこか綺麗というより、不気味だった。
そう、桜は美しいだけの花ではない。
桜は不気味なものなのだ。
桜は傷つけると血を流すという。
桜の根元には死体が埋まっているという。
桜は、化けるものなのだという。小学生の時に読んだオバケの本に書いてあった。大抵は少女の姿で現れ、しかし急激に老いていく。桜が開花してから散るまで、その期間が短いことを急激な老化で表しているのだとか。儚さと桜がなんやらかんやらと本は説明していたが、もうあんまり覚えていない。記憶は暗闇の桜吹雪のように曖昧となっていた。ぼやけて霞んで消えていく。ゆらと弾けて消えていく。
ざわ。
浮き出た桜が揺れた。ざわざわと粟立ち涙をこぼす。そんなに春が哀しいのか。
ざわざわ。ざわざわ。
俺はぼんやりとその桜を眺めた。ささくれた樹肌が闇と混じってどこか禍々しい。
ふと。
そんな桜に、どこか違和感が生まれた。何か動いた気がしたのだ。
……化けた?
直感的にそう思う。
闇と同化した桜の幹が一瞬、膨れた。
……いや。
誰かが桜の影から姿を見せたのだ。校舎の塀に影をかぶせられその人物は闇にしか見えない。光のない闇が『見える』というのもおかしな話だが、そういうふうに見えたのだ。濃い闇から薄い闇がはがれて、それは人間の形をつくった。
闇の桜から人間が生まれた。
……桜は人間に化けるものなのだという。
ならばあれは桜か?それとも妖怪の類か?
どちらにしてもあまり会いたくはない。
俺は無視を決めこんで目を逸らそうとする。しかし逸らすことができない。
へたりこんだ地面は刻むように冷たかった。
風がびゅおうと吹く。
桜がざわざわとはためく。桜の化け物もざわざわとひらめく。
小さな声が耳に届く。
桜がしゃべっているのか。
「へぇー。軟弱なんだな、おまえ」
それが、俺と転校生との、初めての対峙だった。
+++
「おまえ、こんなところにへたりこんで何してんだ?まさか練習に疲れてもう動けないとかか?ハッ。ずいぶんと軟弱なレギュラーなんだな」
そいつは俺に歩み寄ると、いきなしそんなことを言った。今度うちの学校に転入してきた転入生。クラスが違うから顔も名前も知らなかったが、こんなかたちで対峙するなんて思ってもいなかった。
あるやつは、コイツが俺の親戚じゃないかと言った。あるやつは、コイツが俺の兄弟じゃないかと言った。
そして、一人だけ、おかしなことを言うやつがいた。
コイツが、俺の双子の片割れなんじゃないか、なんて、とんでもないことを言ったのだ。
転入生の顔が、水銀灯に淡く照らされる。そいつの顔を、俺は食い入るように見つめる。
そいつは、信じらんないくらい、俺と似た顔をしていた。
俺は混乱する。ひどく狼狽する。そんなまさか、そんな馬鹿なことがあるか。
そいつは確かに俺とそっくりだった。だが、ある一点が決定的に違っていた。
長い。
男子がしているには目立ちすぎるくらい、長い黒髪なのだ。
ちょっと待ってくれ、そんな非現実なことがあるか。これではまるで、こいつは昔の俺のような・・・。
「宍戸さん、宍戸さーん。どこですかー」
突然俺を現実に引き戻したのは、その場に不似合いな呑気な声だった。声の方を見ると、長太郎がこちらに走り寄っていた。ここまで俺を捜しにきたらしい。
長太郎は俺と転入生を交互に見て、そして、二、三度まばたきをして、固まった。どうやら彼も、転入生の顔を間近に見るのは初めてらしい。
「お前ら、鳳と宍戸だろ?ここのテニス部のレギュラーで、ダブルスやってるんだよな」
暗がりのなか、転入生は俺たちを見比べた。鋭くひかる眼光が、まるで何かを見透かすように、不気味に光る。そして、何かを知っているように含み笑いをした。
長太郎はぎこちなく頷くと、俺と転入生を交互に見て、あの質問をした。
「あの、宍戸さんと先輩って、もしかして親戚なんですか?」
その質問が転入生の気分をいたく愉快にさせたらしく、彼は声をあげて笑った。
「ちげーよ。その質問、今日何回目聞いただろうな、そんで、何回目の同じ答えをすることになんだろうな。宍戸と俺は全く関係ねぇ。親戚でもねぇ。兄弟でもねぇ。まったくの無関係さ」
転入生は飄々とした態度で言うと、それじゃ、また明日、と言ってバッグを肩に掛けながらきびすを返した。
「あの、すいません。俺、先輩の名前まだきいてないんです。名前、なんていうんですか」
転入生は足を止めると、肩越しに長太郎を見る。切れ長の瞳が、何かを見透かすように、不気味に光る。
「宍戸。宍戸亮だ」
それだけ言うと、振り返らずに転入生は歩きだし、その背中は曲がり角へと消えていった。
取り残された俺と長太郎は、無言で顔を見合わせた。嫌な冷や汗が、背中を流れていた。
+++
「・・・本当に、とんでもない一日だった」
宍戸さんと駅の階段で別れ、俺は混雑するホームに立ちつくしている。
今日は、本当にとんでもない一日だった。朝練に宍戸さんが来なくてがっかりしていたら、昼練は恐ろしいほどハードになっているし、さらに午後の部活も、休憩時間を惜しんでまで練習するという無茶苦茶なことになっているし、さらに・・・転入してきた、先輩。
見れば見るほどそっくりだった。顔立ちや、体格、背丈、声だって、寸分たがわず宍戸さんと一致していた。いつも宍戸さんと一緒にいる俺が言うのだから相当なもんだ。
唯一の違いといえば、風になびく、滑らかな長髪くらい・・・。
「一体なんなんだ、あの人は」
思わずため息がこぼれる。俺はぐったり疲れ果てていた。
「あなたも大変なのですね」
不思議な周波数の声が、すぐそばからした。自分の隣を見ると、本を読むセーラー服の少女が立っていた。
梅子。
それが彼女の名前だった。
「何度も言うけどさ、いきなり隣に立つのはやめてくれよ。心臓にわるいから」
「いきなりと感じるのはあなたの勝手だわ。それに、隣に立つのにいちいち許可がいるなんておかしな話。この通勤ラッシュのなか、そんなルールが適用されたらいっそう混雑がひどくなるでしょうに」
一定のペースでページをめくりながら、梅子はうつむき本を読み進める。重くのびた黒髪が、野暮ったく顔にかかっているので表情は見えない。きっちりとした姿勢で、ときおり視界におりてくる髪を指先でのけて、ただ真剣に活字を追う彼女。別に俺の彼女でも友達でも同じ学校でもなんでもない。ただ、喋りかけると応えてくれるという、友達と呼んでもいいのかもわからない曖昧な関係。
けれど、いつのまにか、なんとなく、ホームからは一緒に帰っている、不思議な関係。
電車がホームに入ってきて、俺たちは人の波にのまれながら電車にすいこまれた。電車のなかでも、梅子はまるで呼吸をするかのように本を読み、そして不思議なことに、俺の隣にいた。彼女は小柄なのに、どうして人波に流されてどっか行ってしまわないのか、いつも不思議に思う。
「・・・今日は、おもしろい話を聞かせてくれないの?」
珍しく自分から口を開いた彼女は、珍しく本から顔をあげて窓の外を見る。
「なら、今日は私がおもしろい話をしてあげましょうかね」
本を開いたまま、梅子は窓の外を凝視する。光のともっていない、不思議な色の瞳が、反対ホームに入っていく電車をとらえる。
「あの電車に、おそらくあの人が乗るの」
「梅子の好きな人が?」
「えぇ、そうよ」
最近聞いた、数少ない俺が知っている梅子についての話に、そのことがあった。彼女が自分のことについて語ることはほとんどないのに、その日は少し熱っぽく、饒舌になって話してくれた。
「あの電車に、彼が乗るかと思うとね、それだけであの電車を愛でたくなってしまうの。たくさんある、東京の血液の一つをよ。奇妙でしょ、今まで私と無関係だったものが、日常の背景の一部でしかなかったものが、彼と何らかの関わりがあるのかと想像するだけで、特別なものへと昇華していくの」
やはり熱っぽく、饒舌になって梅子は語る。
「彼がこの世界に存在している。それは私に、生きることへの意味を与えてくれる。どうしてあなたはこの世界に存在しているの、と聞かれて、私は堂々と応えることができるの。彼が好きだから。彼に恋をしているから。彼がこの世界に存在しているから。だから、同じ世界に存在したいと思うし、生きていたいと願うし、そのためならどんな努力も惜しくはないの」
再び視線を本に戻すと、梅子は本を読みながら話をするという器用なことをやってのけた。
「でもね、決して勘違いしてはいけない。恋する気持ちは正義だし、貴いし、聞こえもいいけど、だからといって恋というものが問答無用で素晴らしいものだと勘違いしてはいけない。恋は危ういわ。それは決して無害な感情ではない。恋を成就するために、人は誰でも時として鬼や般若となるもの」
彼女は濁った瞳を本の上に走らせながら、そうつぶやく。
「梅子の言うことはいちいちわけがわからないよ」
「そう?あなたになら理解できると予想していたのに。あなたと私は似たもの同士だわ」
くすくす梅子は笑っている。何が可笑しいのか俺にはさっぱりだ。
「ちなみに、梅子が好きな人って、どういう人なの?」
俺が何気なく質問すると同時に、電車のドアが開いた。大勢の人が電車から出ていき、気がつくと梅子はいなくなっていた。
+++
長い。一話目なのに、恐ろしく長くなってしまった。
途中でぶっちぎって二つくらいに分けてもいいかなと思ったけど、どうもそれだと話がまとまらない、転入生とオリキャラ(梅子)が入らないっぽいと判断して、あえて、長くても一つにしました。
それにしても、長い。
07,07,13:UP
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