未来を変えることはできるが、
過去を変えることはできない。
それは希望であり、
絶望である。
こころせよ。わらわにでさえこれを歪めることは不可能なのじゃ。
五話【ハクセンノムコウ】
「今日の部活、俺と練習試合してみねぇか?」
午後の部活中、そう誘ってきたのは過去の俺の方からだった。やはりどこか掴みどころのない態度で話しかける彼をねめつけながら、俺は少し嫌そうな顔をする。今の俺は相当虫の居所が悪かった。胃が腐りそうな感覚に必死で耐えながらつとめて冷静になろうとするが、わからないぞ。それ以上俺に何か言えば俺は激情にまかせて何をしでかすかわからないぞ。
俺は無視を決めこむという賢明な判断をくだしたが、それは彼が許さなかった。俺の手首をひっつかみ、ぐいと無理矢理引き寄せて、逃げるのか?とでも言いたげな挑発的な眼光を光らす。
……どうしてもこいつは俺に負けたいらしい。ならいいだろう。断る理由は別にない。ちょうどむしゃくしゃしていたところだ。相手になってやろう。こてんぱんに負かしてやる。いいストレスの捌け口にしてやる。過去の俺の分際で、俺に勝負を挑むとはいい度胸だ。過去の俺の分際で、俺に勝てると思うなよ。
それを察したか彼はじゃあそこのコートが空いてるから入ろうぜ、と言う。練習試合は部活の最後に練習試合をしていい時間みたいな時間がもうけられており、基本的に空いたところから先着順にうまっていく。俺はもちろんこういう時間は長太郎と組んで他のペアとダブルスをするのだが、今日だけは長太郎に悪いと言って断ってきた。
長太郎に一言断ってきて、すでにコートに入って待っている彼に向き直ると、彼は……笑っていた。俺はこの表情を見たことがある。何かを見透かすような、含み笑い。高みから俺を見下すような、高圧的な眼光。
俺はこいつのこういう表情が嫌いだった。見るたびに、嫌な胸騒ぎがするからだ。わけもわからず不安になる。それは俺の機嫌をいっそう悪化させて、イライラさせる。
どくり、どくり。頭の奥で心臓の音が聞こえていた。
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レベルの高い試合というものは、見ていて相当疲れるものだ。試合が白熱すれば白熱するほど、両者が意地になれば意地になるほど、傍観者は体を動かしていない状態でしかし自分も試合に参加したかのように体力を消耗する。
俺も、幾度となくそういった試合を見てきたし、また、そういった試合を造り上げてきた。
だがこんな試合は初めてだった。俺様が生きてきたなかでこんな試合は今だかつてなかった。見ているだけで、こんなにも辛くなる試合を見たのは……初めてだった。
宍戸が、負けた。
俺様の幼馴染みの、宍戸がだ。試合はタイブレークまでもちこみ、そのタイブレークもかなり続いたのだが、結局、わずかな差で転校生が勝った。
転校生は俺の幼馴染みに比べるとどこか腕に荒っぽいところがあるというか、どこか未熟さがただようというか、力任せというか、とにかく、この試合ははたから見れば足を負傷しているとは言えわずかに俺の幼馴染みのほうが一枚上手のように見えた。
だがそれは、ただの予想にすぎなかった。
試合中、転校生は幾度も『これは取れまい』と俺様にさえ思わせた球に喰らいついては幾度も返した。彼の腕は荒いのに、どうしてか球に追いついて返すことができた。俺の幼馴染みも、足の捻挫のせいで本調子とまでは言いがたいがかなり調子はよかったはずなのに、彼との何かの微妙な差によりどうしてか彼には追いききれないことが度重なった。それが、見ていて非常にもどかしかった。一見俺の幼馴染みのほうが実力的に見たら上のようなのに、彼と転校生との間にある実力以外の何かの差が、わずかではあるが確かに存在していたのだ。
その差はまったく微量なのであったのだが、確実に存在していた。
それが見ていて……非常にもどかしかった。
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頭はすでに思考を放棄していた。回りの音はまったく聞こえない。うるさくざわつく部活の雑音も、ボールが跳ねる乾いた音も、コートを蹴る靴の音さえも、なにも、かもが、消え去って、自分の荒い息、心臓のうるさい音、黒い激情が煽動し、のたうちまわる音だけが、耳のなかで反響して、何度も、何度も、俺を責める。
「俺は別に――」
転校生が、きびすを返しながら言う。
「――レギュラーには興味はねぇんだ。だから俺に負けたからっていって、お前がレギュラーを落ちる必要はねぇからな」
「……」
俺はユニフォームの裾を強く、強く握りしめ、沸き上がる自身への怒りをけんめいにこらえる。
過去の自分に負けただけでなく、さらにレギュラーの座までもゆずられるだなんて。……これ以上の屈辱はなかった。これ以上の屈辱はなかった。自分があまりに惨めすぎてなにも言いかえせない。
「宍戸さん……」
ふいに声がした。鼓膜をほとんど震わせない、静かな、やさしい声。振り向いて顔を確認するまでもない。長太郎が、俺のすぐ背後にいる。
「宍戸さん、あの……」
その声音に、俺は聞き覚えがある。俺を元気づけようと、不器用なくせに何かを言おうとしている声だった。やさしい言葉をかけて、俺をどうにかなぐさめようと、喜ばせようと思っている声。長太郎らしい……本当に、本当に的外れで、見当違いで、人の神経を逆撫でするような方法で。
「宍戸さ――」
その先を言うな。
その先を、言うな。
「黙れ長太郎!」
俺の中心で何かが爆ぜた。
溶岩が噴き出すような、地獄が氾濫するような、未だかつて感じたことがないほどの邪悪な力の発露。
体は試合後とは思えないほど身軽に動く。
俺は長太郎の手を振り払い、無防備な彼をおもいっきり突き飛ばした。
だが。
まだ足りない。
「―――――――――――――!」
何かめちゃくちゃ理不尽なことを言った気がする。激情にまかせて、何か悪口を言った気がする。何を言ったかはわからない。とても下らない、覚えていても仕方ないような、くそっ、とか、このっ、とか、そういう類の生産性のない罵倒語を吐いた気がする。
そして後ろも振り返らずに走る。コートをとびだして、走った。
途中誰かにぶつかったりしたが気にせず走る。どこに走っているのかわからないがとにかく走った。
優しさが、わずらわしく感じてしまうときがある。
それがたとえ、理不尽だとわかっていても。
それがたとえ――
好きな人からの優しさでも。
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時間は残酷に平等に流れていく。
時間はやさしく平等に流れていく。
それは決して止まることはないし、もちろん戻ることもない。ついつい忘れがちなことだが、そのことを常に念頭に置いておかないと、必ず後悔する日がくる。
……そんなことは、わかっている。なんとなくだが、俺はわかっていた。だが俺はそのことをなんとなくわかっているだけで、深く理解はしていなかったのだろうと思う。
俺はきっと、一度失わないとその大切さに気付けないどうしようもないやつなのだ。
手遅れになってみないと本当のことに気付けない……本当に、どうしようもないやつなのだ。
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どれだけ感謝されようとも、どれだけイイヒトだとおだてられても、どれだけ頼れる人だと信頼を寄せられても、鳳長太郎の心は虚しかった。
頼られるということが嫌いであり、また、苦手だったからだ。
ところが他人はそう見てくれなかった。他人はよく自分を頼った。他人は自分が頼まれたら断れないことを熟知しているからだった。そして、自分は予想されるとおり頼まれたらそれを断れなかった。自分がそれを断ることにより、他人から失望されるのはもっと恐かったからだ。
しかも、頼まれたら中途半端な仕事はできなかった。嫌な面倒事など適当にやってかたづければいいものの、自分の性分がそれを許さなかったのだ。一度やりだしたら、自分の全神経をそのことに注いでしまう。手加減なんてできなかった。手加減なんてできなかった。自分はそういう性分だったのだ。
他人はそんな自分の性分に振り回されている自分を見て、あぁ、なんて真面目な人なんだ、なんて頼りがいがある人なんだ、と見当違いなことを言って賞賛した。
面倒事が終わると、他人は必ず自分にありがとうと言った。さすがだよと言った。頼りがいがあるねと言った。また何かあったら頼んでいい?とも言った。自分は失望されるのがこわいので、いつもそこでうなずいてしまう。自分の性分がうらめしかった。
自分は頼られるのは嫌いであり、また、苦手だった。だがそんなわけで、自分のまわりには常に『頼まれ事』が山積みになっていた。
トモダチだからやってくれるよね?
クラスメイトだからやってくれるよね?
シリアイだから。
ナカヨシだから。
オオトリクンハ、ヤッテクレルヨネ?
そういうことを、自分の耳もとで四六時中ささやかれ続けるのは気が狂いそうなほどたまらなかった。
自分はよっぽど他人に言ってやりたかった。
友達とは『利害関係』のことをいうのですか?
クラスメイトとは『利害関係』と同義語なのですか?
そんな空虚で、薄っぺらくて、頼りない繋がりしか、自分はもてないのですか?
それは孤独だった。それはひどく孤独な状態だった。いつも自分は人に囲まれていたが、人に囲まれていながら自分はいつもヒトリボッチだった。
自分は時々、自分が綱渡りの綱の上に独りでいるような錯覚に陥ることがあった。自分は常に綱渡りのロープに立つよう他人からせき立てられた。自分は綱渡りは嫌いだった。綱の上には孤独が生息する。自分は孤独を恐れていた。孤独は人を喰う。自分はばりばりと孤独に喰われる。命綱は利害関係。綱のまわりには他人がいる。渡れ渡れとせき立てられる。自分は疲れ果てていた。いつしか自分は綱の向こうの世界、白線の外側の世界に憧れるようになっていた。それほどになるまで自分は追い詰められていた。
だが……彼だけは違ったのだ。
『鳳、俺と一緒にきてくれ』
彼は、自分に、一緒に歩こうと手をさしのべてくれた。
一緒に、肩を並べて歩こうと言ってくれた。
そのとき孤独は消え去った。
自分を蝕む孤独は消滅した。
獰猛な怪物はいなくなり、強い繋がりが生まれていた。
だから彼は、自分がこの世にとどまる唯一の命綱だった。彼が唯一の理由だった。白線の外側に、彼はいない。だから自分はここにいる。彼はここにしかいない。彼のとなりの席は、ここにしかない。ただそれだけが、自分をこの世につなぎ止めていた。ただそれだけが、自分を今まで生かしつづけていた。
私をこの世に引きとめたのは、彼だけだった。彼だけが理由。彼だけが唯一。彼と私との関係だけが、私の命綱であった。
私こと梅子は、彼によって生かされていたのだ。
+++
すべてが瓦解するのは、あっけないほど、あっという間だった。
+++
「・・・もう幸せな日常は取り戻せない、すべて砕け散ってしまった」
絶望そのものの声で、梅子はつぶやく。
その表情には虚ろが張りついている。
梅子はぽつんと、冷たいコンクリにへたり込んでいた。さわさわと夕暮れのホームの静かな雑音が、俺たちを頼りなく包みこんでいた。
傍目には体育座りしているように見える。膝を抱いて梅子は地面に座っている。彼女のすぐそばには通学鞄が落ちていた。ふと目をやると、遠くに本も転がっている。梅子はどこか泥まみれで、顔にもべったりと涙がついていた。ぼんやりと濁った瞳からはぼろぼろと涙がこぼれる。
俺は言葉もなく、そんな梅子を見つめて立ち尽くしていた。
学校からの帰りの途中、独りで駅まで歩き階段を上がったところで俺はこの光景に出会った。
ぼろぼろの梅子がホームに座り込んでいる。どうしたことか彼女は虚空を凝視して動こうとしない。俺も何度かどうしたのかと問いかけたが、梅子は上の空で涙の混じった言葉を紡ぐばかり。
「・・・これで、幸せな時間はおしまい。私は嫌われて・・・憎まれてしまったわ」
「梅子・・・?」
「鳳くん、私は『死ね』と言われてしまった」
「『死ね』・・・?」
「彼に死ねと言われてしまった。そして彼は私を突き飛ばして去った」
梅子はセーラー服の袖でぐいと涙を拭った。しかし拭っても拭っても、涙はあふれる。
彼女はやがて嗚咽をあげた。
「嫌われてしまった。憎まれて・・・しまった」
「彼って・・・あの人?梅子がいつも言っている・・・」
「そう」
梅子は短く答えて、俺にというわけでなく独り言のようにつぶやく。
「私の好きな人。私の大切な友達。もっとも、友達だと思っていたのはわたしだけかもしれないけれども、私は友達だと思っていた。元気で、真っ直ぐで、私の何倍も輝いていた彼。それでも、私を、梅子を必要としてくれた。私を、他の誰でもない、梅子として見てくれた人。学校のこととか、家庭のこととか、好きなこと、嫌いなこと・・・何でも語り合えた、私の大切な人」
つう、と涙が梅子の頬を伝った。
梅子は泣いていた。
悩んで、哀しんで、涙を流していた。
俺はガラにもなく声を荒げる。
「どうして、そんな、喧嘩でも・・・」
「喧嘩というほどのものでもないわ。些細なすれ違い。ちょっとした、いさかいよ。だけども私たちの関係はそれだけで決壊してしまった。私は死ねと言われてしまった。彼は私を突き飛ばして去った。想定はしていたけれども、すごく、すごく哀しい」
梅子の声は震えていた。
これが大切なものを失った人間の姿か。
「鳳くん、別れというのは哀しいわ」
「・・・」
「私、なんだか疲れてしまった・・・」
梅子はゆらりと立ちあがって、線路の方向へと歩を進める。
俺は違和感をもち、彼女の背中に声をかける。
「梅子?」
なんだかとても儚い姿に見えたのだ。
梅子の言葉が蘇る。
『私たちが取り繕うようにして大切に守っているこの現実というものは、それほど大したものなのでしょうか。この何もかもが不自由で、醜いものが飽和状態までに溶けこんだ、現実というものが』
『白線の外側の世界に、行きたいと思うのはいけないことでしょうか』
『どうして私は、この現実に生きているのでしょうか』
梅子はこちらを一瞬、見て、涙を流したままの無表情で告げた。
「これを見て。どう、素敵でしょ。私の包丁は、こんなにまで鋭利になった」
「梅子・・・?」
その手には、どこからか取りだしたのか、一振りの調理包丁が握られている。
俺は、おぞましい感覚に震えた。
「それで、何を・・・」
「さようなら」
梅子は低くつぶやく。俺は息を呑む。彼女はその曇り一つない包丁を、ぐさりと自分に突き立てた。
鮮血が散る。鮮血が散る。辺り一面に、おびたたしい赤が。赤が。赤が。梅子を。ホームを。全てを。赤に染めてゆく。
「私はいくわ。先にいくわ」
梅子はひどく小さい声で言う。だが彼女の独特な声を、不思議と聞き漏らすことはなかった。
「白線の、外側の世界へ・・・」
梅子の小柄な体は、すぅっと吸いこまれるように、線路へと消えていった。
それが・・・彼女を見た最後。
直後、特急の通過電車が、梅子の上を静かに走り去っていく。俺は思わず目をそらした。頭が痛い。外界から自分を守るように、頭を抱えて、目をつぶった。
……しばらくホームは静かだった。それを不振に思い、ゆっくり目を開ける。辺りは不気味なほど静かだった。さわさわと、日常のホームの雑音しか聞こえない。俺は辺りを見まわす。するとそこには何もなかった。何もなかったのだ。梅子の通学バッグや、落ちていた本や、あるはずの鮮血や、染みこんだはずの赤が、何もなかった。俺はおそるおそる、線路をのぞき込む。・・・やはり、何もなかった。梅子がこの世にいた証拠は、跡形もなく、消え去っていた。
そうか。そうだったんだ。俺はそこで、はじめて本当のことを理解した。
俺と梅子は、本当に、似たもの同士だったのだ。いや、似たもの同士という言い方は少し違うかもしれない。
梅子は俺だった。
梅子はきっと、いや、確実に、俺が創りだしたもう一つの人格だった。俺が創りだした、陳腐な幻想だった。そして俺の願望の、映し鏡だったんだ。
梅子なんて人はいない。
梅子なんて人物はいない。
いるのはいつも自分独り。
独りである現実に耐えきれなくなった自分が創りだした、幻の女の子がそこにいただけ。
だから梅子に好きな人ができた、というのは俺に好きな人ができた、ということ。梅子が独りを恐れてうちに来た、というも、俺が独りを恐れて誰かを必要としていた、ということ。梅子がこの世界に興味がなかった、というのも、俺がこの世界に興味がなかった、ということ。梅子が好きな人を手に入れたいと願った、というのも、俺が同じことを願ったから、なのだ。そうして、好きな人から、突き放されて、『包丁』を自分の胸に突き立てて、『白線の外側の世界』へ行ってしまったのも、俺がそう願うから、なのだ。説明したらきりがない。共通点をあげたらきりがない。だって、俺と梅子は実は同じ存在だったのだ。
だとしたら、俺は梅子に謝らないといけない。俺は今までずいぶんひどいことを押しつけてきた。自分の手首を傷つけるかわりに、梅子の手首を傷つけてきたんだ。深く、何度も、ずたずたになるまで。たとえ君が、俺が創りだした幻想だったとしても、あんまり酷すぎたよね。ごめんね。俺は最低なやつだったね。なんて、残酷な。ごめんね。何度謝っても足りないよ。本当に、本当に、ごめんね梅子。
俺はいつの間にか泣いていた。涙がべっとりと顔にはりついていた。そして、強い羨望を感じていた。白線の、外側の世界への、強い羨望を。
だが、俺は行かなかった。その日は、まだ行かなかった。無事に電車に乗って、家に帰りついて、無事にその日を終えることができた。俺だけが逃げおおせた。
一日に、二度も自分を殺す気にはなれない。そんな曖昧な理由で、俺はかろうじてこの世に踏みとどまったのだ。
その日は眠れなかった。
07,08,02:UP
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