【たはむれな奇跡】
ぱちぱちと、俺は二三度まばたきをする。白く、どこか曖昧な空間。その足元に引かれた白線の上に、俺はいつのまにか立っていた。
「下らない」
白線の外側から、声がした。不思議に響く特徴的な周波数。見ると、セーラー服を着た梅子が立っている。
梅子がいる。ならばここは幻覚のなかなのか?
「下らない、本当に下らない。誰かから呼ばれたような気がして来てみれば、こんな下らないことになっていただなんて」
同じことを繰り返し言う彼女の手は、だらりと下にさがっていた。本を持っていない梅子の姿を見るのはこれが初めてだった。
「そんな下らないあなたに、私から下らない問題を二問」
「梅子、ここはどこなんだ?君がいるってことは、俺はもう死んだのかな」
「問一、任意の点Aと任意の点Bの距離を求めよ」
「……は?」
「答え、『|B−A|』」
しばらく考えて、それが数学の問題だということがわかったが、意味がわからない。どうして梅子はいきなり数学の問題を出すのだろうか。
「問二」
「ちょっと待ってよ。何が言いたいのか意味がわからないよ」
「任意の点Aと任意の点Aの距離を求めよ」
「話を聞いて」
梅子は鋭利な視線でこちらを見ると、話を止めないで言う。あんたの言うことなんて聞きたくないとでも言いたげな態度だ。
「答え、0」
「だから何なんだよ」
「わからないの?私の言いたいことが」
梅子は呆れた、という風に寛大にため息をつく。
「あなたが暴走して、勝手に傷ついて、奈落の底に落ちようが私は知ったこっちゃないの。だけど、そのせいで彼を傷つけるのだとしたら……私はあなたを許さない」
「だから意味がわからないよ。君の言うことはいつもそうだ。難解で、わけがわからなくて、意味不明で」
「それでも意味を考えなさい。たとえ難解でも解読なさい。そうでなければ、私はあなたを恨むわ。死んでもあなたを許さないんだから」
深い憎しみをたたえた眼光がぎらぎらと光る。どうして彼女はこんなに怒っているのだろうか。そこに立ちふさがっていては俺は白線の外側に行けないのに。行く手をはばまれて怒るのは俺のほうなはずなのに。どうして彼女は敵意を剥き出しにしてほとばしるほどの怒りをたたえているのだろうか。
「あなたはもっと冷静になるべきだわ」
言い終わるやいなや、梅子は俺の体を白線の内側に押し戻した。その細い腕のどこにそんな力があるのか、彼女の突っ張りに俺の体は大きく倒れて白線の内側に……。
+++
ぱちぱちと、俺は二三度まばたきをする。
気がつくと、いつのまにか俺は踏み切りの外側にいた。いや、外側にいるというのはおかしな言い方か。だってここには宍戸さんがいる。だからここは踏み切りの外側であって白線の内側だ。
後ろから電車が走り去る音が聞こえる。どうして俺はいつのまにか内側にいるのだろうか。まるで踏み切りをすり抜けたような。
『あなたはもっと冷静になるべきだわ』
突然、梅子の言葉が脳裏によみがえる。
一体なにを冷静になれと言うのだろうか。
「ちょ……たろう」
宍戸さんは激しくむせながら弱々しく俺の腕をつかむ。口のはしから、赤い線が流れる。どこかで口のなかを切ったのだろうか。
「……AとAの距離って」
脳裏に、ある考えが浮かんだ。それを確かめるべく、俺は宍戸さんの顔をのぞきこむ。指先で顔の輪郭をなぞり。ゆっくりと流れる血をぬぐい。彼の乾いた唇にキスを落とす。俺の口のなかに、赤い味が広がる。思考が白くかすみ、すごくぞくぞくするものがある。同じだった。唇の感触や、匂い、なにもかも。宍戸先輩のそれと、同じだった。
仮定は確信に変わった。俺はなごりおしく宍戸さんから唇をはなすと口を開く。
「宍戸さん、あなたは……宍戸先輩と同じ存在だったのですか」
「……そ……だ。あいつは、俺の未来から、来たんだ――」
AとBの距離は、0だった。
「じゃあ、俺はまだ、ここにいていいのですか?俺は死ななくていいのですか?俺は死ななくて、いいのですか?」
宍戸さんは何も言わない。いや、言えないのだろう。息も絶え絶えに、肩を上下させている。
こんなになるまで、宍戸さんは走って追いかけてくれたのだ。こんなに俺のことを必死に追いかけてくれる人がいる。宍戸さんは、こんなに俺のことを求めてくれる。
「宍戸さん、俺は、まだこの世界に――白線の内側にいていいのですか?」
宍戸さんは言葉のかわりに、俺の体をそっと抱きしめてくれた。幸せだった。あまりに幸せな感覚に、体の力が抜ける。
俺の手から、カランと音をたてずに包丁が落ちた。
遠くの桜並木で、桜が一本咲いていた。
【FIN】
07,08,10:UP
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