ちょうど大学を卒業した頃ぐらいだったと思う、宍戸さんとおれが同じマンションに住み始めて、おれが自分の仕事をすっぱりやめたのは。躊躇はみじんもなかった。まだ始めたばかりの仕事でそんなに執着もなければ愛着もなかったし、それに宍戸さんの生活を支えるという仕事に比べれば、どんなに充実感をあたえてくれる仕事であろうが魅力的には思えない。彼との生活を考えるとその他のものはすべて色あせてかすんで見えるのだ。
おれは宍戸さんの家に住むようになって、彼のかわりに掃除・洗濯・水やり・料理などをやるようになった。というより、最近やっとまかせてくれるようになった、と言う方が正しいかもしれない。
始めてしばらくは独身経験の長い宍戸さんの方が家事のことはよく理解していたし、料理はうまいし、レパートリーも多かった。何をさせてもおれより秀でていたし、おれより頭が回って手が動いた。物事を器用にこなすのが得意でないおれはしばらく宍戸さんからいろいろなことを教えてもらうことになり、そしてなかなか一人で料理をまかせてもらえなかった。
つい最近の話だ、おれが料理をしているキッチンで宍戸さんの指導がとばなくなったのは。
朝食も宍戸さんより早く起きて作るようになったし、弁当のおかずも単調ではなくなった。夕食は栄養バランス6種類を考えて作れるようになりつつあるし、何より失敗がずいぶん減った。それが何よりの進歩だった。家事全般まるまる全てをまかせてもらえるようになるまでまだ時間がかかる話だが、少しずつでも自分のできることが増えていくことには言いしれない充実感があった。あの、自分の手先がキッチンに根を張っていくような感覚はなかなか忘れがたいものだった。
だから、おれは今かなりショックを受けている。
「おはようございます宍戸さん。朝食はできてますよ」
長太郎を名乗る宍戸さんはにこやかに言うと、目玉焼きの乗った皿をテーブルに並べた。おれはがく然としていて動けない。彼の胸元できらりと光るものが見えた。おれははっと自分の胸元を見た。ない。おれが眠っている間にクロスがとられてしまったらしい。そこまですることないのにと、おれは聞かれないようにぼやいた。
とすると、昨日の晩に彼が言っていたことは本気だったらしい。宍戸さんは鳳長太郎になり、おれは宍戸さんをやる。そんなおままごとみたいなことをこの歳になって本気でやるだなんて。おれはてっきりただの脅しか、言葉のあや程度にしか思ってなかったのでひどく驚いた。
おれは何か朝食の支度はないかとテーブルを見わたしたが、箸は並べてあるし、カップのなかにはコーヒーも淹れられているし、目玉焼きは並んでいて、食パンもトースターの中でこんがり焼かれている最中だった。あれこれ考えてみて、朝食の支度のすべてを頭に浮かべてみたが、どれもちゃんと整っていて何もすることがなかった。あるとすれば、イスに座って手をあわせていただきますと言って朝食を口に運ぶことくらい。つまりすることは何一つない。
「宍戸さん、昨日の晩に言っていたことって冗談じゃなかったんですか?」
「いやだなあ、長太郎って呼んでくださいよ宍戸さん」
妙ににこやかに言うと、長太郎を名乗る宍戸さんは意地悪く笑った。おれはそんな顔しない。
「長太郎、昨日の晩に言っていたことは本気なんですか。この連休中はお互い入れ替わるって、おままごとじゃないんですから」
「俺は敬語は使わねえ」
宍戸さんは低くうなるように言う。
「・・・すいません」
「敬語」
「・・・悪かった」
「よし」
席につくと、宍戸さんは満足げにコーヒーをすすった。食事の順番って、おれはパンから先に食べるけど宍戸さんはコーヒーからまず手をつけるんだよね、とそこでおれはひそかにチェックを一つつけた。
それにしても、まずいことになった。おれはパンをかじりながら内心あせっていた。宍戸さんはやると言ったら何から何まできっちりやり通す人だから、きっとこの入れ替わり生活だってきまじめになってやるのだろう。連休中は本当にお互いはお互いの名前を交換して呼び合って、性格とかクセとかも、入れ替えて生活して、そうして、三日後には普通の生活へと戻ってゆく。とすると、まずいことが一つだけある。
この連休の初日、つまり今日、中学のときのテニス部レギュラーが集まる同窓会があるのだ。あの人たちのことだから、お酒が入れば陽気になってこんなおれたちのことを酷くいじくり倒すことだろう。喧嘩してお互いを入れ替えるだなんて、そんな特殊で面白おかしくてイジメがいのあるネタを、あの人たちが放っておくわけがない。とんでもない要求を押しつけてきて、真っ青になっているおれたちという、残酷なほどリアルなその光景がまぶたに迫ってくる。めくるめく嫌な未来予想図が展開されはじめ、おれはその先の展開が見えてくる前に想像力のスイッチを切ってもくもくとパンを食べることに専念した。

そんな恐ろしいことになる前に、どうにか彼を説得してこの喧嘩を終わらせるしかない。おれはソファーに沈みこみながらうなった。同窓会のことは、いざ本場に行ってみなければどう転んで行くことか予想だにできないが、どう考えてもおれたちがいつもと同じ扱いをうけて穏便に受け入れられることはない。それだけは確かだ。
そうかそうかー、二人は喧嘩して宍戸が鳳になって鳳が宍戸になったかー、大変だねー。わかったよ了解―名前間違えないように気をつけなきゃだよねー、それよりもそろそろビール開けない? なんていうことには万に一つもありえないのだ。何があってもどう転んでも酷い目にあわされるのだ。
おれはキッチンでお皿を洗っている宍戸さんを見た。鼻歌まじりに水を流している彼の表情は、とてもにこやかなものだった。曲はドビュッシーのものだ。芸が細かい。
おれは言った。
「ねえ宍戸さん」
「長太郎って呼んでくださいよ」
彼は人差し指を立てておだやかに注意した。
「長太郎、おれ少し思ったんですけど」
「敬語」
彼はまた指を立てて言った。少し声がこわばる。
「おれ、ちょっと思ったんだけどな」
「はい」
「お前、今日は少し様子がおかしかないか」
ひた、とお皿を洗う手が止まった。そんなはずはねえぜ、といった顔をしている。おれは慣れない宍戸さんの口調を真似して、続ける。
「お前、いつもより大人しくないか? つまりよ、いつもと違って甘えてこねえじゃねえか。抱きついてきたり、いきなりキスしてきたり、突然襲ってきたり、そういうことしねえで妙に大人しくしてんじゃねえか」
宍戸さんはさっと顔を赤らめ何かを怒鳴ろうとして、やめた。ここで怒ったり怒鳴ったりすればそれは『長太郎』ではない。彼はとっさにそう思いとどまったのだろう。
おれの考えはいたってシンプルだ。つまり、おれがいつも宍戸さんにしていて宍戸さんが嫌がることを、わざと『長太郎』にさせるようにしむけて、宍戸さんが『長太郎』でいることを挫折させる。口頭での言い争いが全く通用しない宍戸さんへの手段としては、おそらくこれが唯一だろう。
おれはたてつづけに言い放つ。
「長太郎だったらいつでもおれのこと抱きついてくるし、長太郎だったらいつでも好きだとか言ってきたりするしよ、長太郎だったらなりふり構わず襲ってきたりするし、甘えたり、ねだったり、いろいろと、それこそ馬鹿な犬のようにウゼーくらいかまってくるのによ」
おれは自分で自分のことを言っていて気恥ずかしくなったが、こらえてあれやこれやと少しの誇張をちょこちょこと織りまぜながら言った。さて、反応はどうなのだろう。おれは内心ひやひやしながら宍戸さんをちらと見る。
「・・・それは」
彼は、低くうなるように言った。おれはそこで、何かを言おうとしたが言葉が出てこなかった。ぴんとはりつめた緊張のなか、彼はすさまじい目でおれを睨めつけていたからだ。覚えてろよ、冷気のように冷たい雰囲気を切り裂いて彼の瞳がそう告げていた。
おれは、とんでもない怒りをかってしまったのかもしれない。そう後悔したとき、キッチンから『長太郎』が戻ってきた。
「宍戸さんがそう言うってことは、宍戸さんに思いっきり甘えてもいいってことですか!」
言いながら『長太郎』は俊敏におれの背後にまわり、ソファーをはさんでいきなりおれの首に腕を回してギリギリと抱きしめてきた。おれははっと身の危険を感じて逃げようとしたが、すでに首はがっちり固定されて微動だにしない。きゅっと首が絞まる。呼吸停止。身の危険。身の危険。だが逃げられない。
「わあい、宍戸さん大好き」
妙に冷たい声音だった。愛が痛い。というより殺意を感じる。確実に悪意を感じるのですがどうしたものでしょう。息が止まり苦しいおれは涙目で必死にごめんなさいと訴えたが、出口を失った言葉はおれののどの奥でくすぶって熱くなるだけだった。
やっと解放されて、おれは久しぶりの酸素をありったけ吸い込んだ。自分の首筋をさすり、そこにくっきりと残るあとがあるのに気づいて恐ろしくなった。
「次、なんか下らねえこと言ったら承知しねえからな」
宍戸さんに戻った宍戸さんはそう冷たく見下すと、有無を言わせぬ張りつめた声で言った。一切の質問も反論も認めない、といった緊張感だ。
おれは理不尽さに泣きそうになりながら言った。
「おれは一度だって宍戸さんを殴ったことないのに、ひどいっすよね」
何気ない一言だった。とくにこれといった深い意味はない。おれは単に不満なだけだったし、グチのようにとりとめもない言葉だった。だが、そこで空気がぷちりと変わった。宍戸さんはゆっくり振り返ってくると、苦虫を噛みつぶしたような顔を一瞬だけ見せた。気がつくと人のよさそうな笑顔を浮かべてにこにこしていた。
「ごめんなさい、今のなし。そうですよね、『長太郎』が宍戸さんに脅しをかけるなんておかしいですものね。わかりました、今からはちゃんと真剣にやります。でないと意味ないですからね」
張りつめていた緊張が、ふっと緩やかになる。おだやかな笑顔の宍戸さんはごめんなさい、とやさしく言いおれを抱きしめてきた。首に回された腕が暖かい。今度は、本当にやさしいハグだった。
心臓が切り裂けるかと思った。視界が真っ白に染まって何も見えない。おれは自分が『宍戸さん』役であることをすっかり忘れて、彼をきつく抱きかえした。どうしてそんなこと覚えていられようか。目の前で、こんなに柔らかい笑顔をしている宍戸さんがいるのに、他のことを考える余裕がどこにあるだろうか。おれは何かわけのわからない喜びの言葉を叫びながら彼の細身を抱きしめていた。
「・・・なに抱き返してんだコノヤロウ!」
宍戸さんがおれのあごを下から強烈に打ち抜いたのは、その時だった。
おれはソファーにもんどりうって倒れた。突然すぎて痛みは感じない。衝撃で脳が揺れたせいか、世界がぐるぐる回転している。足場の安定しない視界で、宍戸さんがおれをすさまじい目で見下している。ぴりぴりと怒りがほとばしり、それは彼の背中から具現化し物質化して粒子となって空気中を支配しているように確実な存在としておれを威圧していた。
「なんで殴ってこねえんだよお前」
「そんな、冗談でだっておれが宍戸さんを殴れるわけないじゃないですか」
「だから宍戸じゃねえって言ってるだろうが。そんなんじゃ意味がねえだろう。俺はあくまで『長太郎』だから『長太郎』が何か変なことしてきたら殴る蹴る絞める黙らせる。それくらい、いつも俺を見てんだからわかるだろうが」
「それでも、宍戸さんに手をあげるだなんておれには無理ですよ」
「黙れ!」
宍戸さんはそう言うと鋭くおれを睨んだ。そして突然、ふっと緊張を解いて深呼吸した。一呼吸の間。再び顔を上げた彼は、もう二度と消えることはないのではと思うくらいやさしい笑顔をたたえていた。おれはどきりとした。今まで宍戸さんのとなりにいて、こんなに柔らかい笑顔を見たことがなかったからだ。でも、そんな素敵な笑顔をどうしてこんなところで。喜びと混乱にはさまっているおれを見て、彼はやさしげに言った。みじんの悪意もない、純粋そのものの声だった。
「それじゃあ宍戸さん、おれは近くのコンビニまで買い物に行ってきますね。さっき朝食で牛乳を使い切りましたから、買ったらすぐに戻ってきます。あと、牛乳の他に何か買っておくものとかはありませんか」
おれはそのあまりの変貌ぶりにあっけにとられながら、いえ、何もありません、と言った。
「敬語」
指を一本立てて柔らかに言う。
「あ、悪い」

氷帝学園中等部テニス部レギュラーで、唯一忍足先輩だけは東京をはなれて関西へと戻っていった。そのことがあってか、忍足先輩はあれ以来あまり東京で会うことがなくなっていた。だから忍足先輩と向日先輩は午前中を使ってそれぞれのお宅訪問のようなことをして、そして午後には集合場所である跡部宅へ向かって同窓会に参加する。そういうことを今日一日予定しているのだと、お茶を冷ましている向日先輩は言った。
忍足先輩と向日先輩の二人がうちに訪ねてきたのは、コンビニへ出ていった『長太郎』とちょうど入れ替わるようにしてだった。おれは彼が戻ってくるまでの間、二人にお茶をだしてしばらく話に花を咲かせていた。中学時代の体験、高校時代の思い出、大学時代の事件。思い起こせば、二人は長く広く深く遠くからつながりのある人たちだった。
「そういやお前さんらは相変わらずなん?」
忍足先輩はそう言って湯気の立つ湯のみに口をつけた。
「はい、相変わらずですね」
「相変わらず、宍戸の犬状態なんだろ」
まだお茶を冷ましている向日先輩がそう茶化してきた。おれが否定できずに苦笑したそのとき、玄関からかちゃかちゃと音がしてドアが開いた。おれが、お帰りなさい宍戸さん、と言うより早く『長太郎』は言い放った。
「ただいま戻りました、宍戸さん」
大きくはっきりとした声だった。おれはさっと青ざめる。二人のほうを見ると、向日先輩と忍足先輩は目をぱちくりさせて、お互い顔を見合わせて、弾けるように笑いだした。
「なになに、いま宍戸なんつった? 宍戸さん、だ? どうしちゃったわけさ! バカみてー!」
「なんや新しい罰ゲームかなんかか? 何を面白いおままごとしとんねんお二人さん!」
おれはしぶしぶ二人に事情を説明したが、説明すると二人の笑いはさらに加速をつけて弾けた。げらげらソファーの上で笑い転げて、向日先輩なんか危うく呼吸困難におちいりそうになったほどだ。そんなに笑わなくたっていいだろうに。
「つまり宍戸は『鳳』になったってわけ? じゃあさじゃあさ、宍戸ははやく鳳に甘えろよ! だってそうだろう? 鳳いっつも宍戸に抱きついたりしてたじゃんかよ。はやく『鳳』らしく甘えにいけよ!」
向日先輩は面白がってそう要求してきた。
宍戸さんはちらとおれの方を見ると、にこやかに向日先輩を睨んだ。
「お前な、そういうこと言ってるとマジ殺すぞ」
「残―念。『鳳』は先輩サマに向かって『殺す』なんて暴言は決して吐いたりしませーん。マイナス5000点―」
「それは大変失礼しました向日先輩。あなたみたいな人はよっぽど街角で知らない人にどっかり刺されればいいのにと強く強く願いますよ」
かなりあからさまな暴言を『長太郎』は吐いているのだが、それすら向日先輩の笑いの種となってソファーの上で転げ回らせた。
『長太郎』は少し困ったような顔をして向日先輩を見ていた。その表情がおれのとそっくりだったのでどきりとした。そんな彼は言った。
「おれは、別に向日先輩にそんなこと言われなくても自分の意志で宍戸さんに甘えますよ。と言うより、宍戸さんがたとえ嫌がってきても負けじと甘えていきますからね」
長太郎がこっちを見た。にこりと笑っている。柔らかい笑顔だった。
「宍戸さん、一つ忘れてるものがありますよ、まだお帰りのハグをしてませんよ!」
そう言って、上から被さるように抱きついてきた。そしておれの髪に顔をうずめて、匂いをいっぱいに吸っている。
それを見て、二人はまた大爆笑した。
「鳳だけが『宍戸』じゃねえじゃん!」「鳳だけ『宍戸』とちゃうやん!」
おれは宍戸さんの猛烈な攻撃をまともに受け危うく昇天しかけていた。
「・・・だから何でそこで殴ってこねえ!」
本日二回目のアッパーが炸裂したのは、その時だった。うわー強烈ーと思いながらおれはソファーにもんどり打って倒れた。

その後しばらくの間、四人は思い出話に再び花を咲かせた。思い出、といってもそんなに昔のことではないので結局はいつものようにテニスの誰選手がどうした、とかスポーツの何大会がそうした、とかそういう話へとそれていった。しばらくお互いが卒業して別々の道へ別れていったことを忘れて、まだチームメイトである頃へと戻っていた。
電話のベルが鳴ったのは、そういう時だった。長太郎が受話器を取りに行って、そして俺はまた話に戻る。
しばらく誰かと話した後、長太郎は青い顔をして戻ってきた。
「誰からの電話だったんだ」
俺がそう聞くと、顔色の悪い長太郎はひどくどきりとした顔をした。彼は重い口調で言った。
「母さんが、入院したって兄さんが電話を」
俺もさっと青ざめて、怒鳴るように言った。
「入院って、どこに!」
俺の脳裏に嫌な言葉が映像となってよぎる。ガン・心筋梗塞・くも膜下出血・脳梗塞。突然の入院と言って思いつくかぎりの最悪がフラッシュバックのようにビカビカと点滅する。俺は思わず、生唾を飲み込み長太郎の言葉を待った。
「ここからけっこう遠くの病院です、あ、ぎっくり腰での入院ですけど」
ぎっくり腰ですけど。その言葉が頭蓋のなかにわんと響いた。張りつめていた緊張が一気にゆるむ。忍足なんかズッコケている。向日なんかソファーから豪快に落ちている。
「ぎっくり腰、か」
「はい、ぎっくり腰ですって」
「病気とかなんとか、じゃなくってか」
「そうですね、別にそういうわけではないって言ってました。数日入院したらすぐに退院だって」
「そうか・・・よかったな」
俺は長太郎を睨むように言う。
「だったら、そんな深刻そうな顔してんじゃねえよ。まぎらわしいじゃねえか!」
「あ、すいません」

時間がお昼の時間になってきたので、長太郎はお昼の支度をしてきますと言って台所に入っていった。
忍足と向日はここで昼を食べた後、慈郎のアパートに訪問しに行くらしい。俺たちは午後から長太郎の母親が入院している病院に行ってお見舞いをしてこようと思う。恐らく、帰ってくるのは遅いから今日の同窓会には間に合わない。
おれはそこでほっと胸をなで下ろした。何はともあれ、同窓会に出ない口実ができたからだ。こんなことを言うのは失礼だが、宍戸さんのお母さんには入院してくれてありがとうと言いたい気分だった。
だって、忍足先輩と向日先輩の二人だけでもあれだけ笑われたのだ。まだ相手が二人だけだったこともあっただけにそんなにひどくいじられることはなかったが、これが同窓会の席となったら数倍の人数になるのだ。きっと人数とお酒の相乗効果も相まって、単純なかけ算以上にひどいことになるだろうことは容易に想像がつく。正直、それに耐えられるだけの体力の自信がない。

駅で忍足先輩と向日先輩と別れて、おれたちは宍戸さんのお母さんが入院しているという病院へと向かった。
その病院は駅から少し遠くの場所に位置していて、緑に囲まれたとても清潔そうな建物だった。空気もとても澄んでいて、こういう場所でリハビリなんかしたらきっと効果も高いのだろうと思いながらおれたちは病院に入った。
「やあ、待っていたよ亮と長太郎」
ロビーにいた宍戸さんのお兄さんはそうにこやかに言った。いつものように、まぶしそうに目を細めている。
だがろくでもないことに、『亮』と呼ぶときはおれを見て、『長太郎』と呼ぶときは宍戸さんを見ていた。どうやら宍戸さんから事前に電話で事情を知らされているらしい。
おれは少し悪のりして、宍戸さんのお兄さんに言った。
「母さんの容態、どう」
するとお兄さんもにっこり目を細めた。なかなかのりがいいね、といった笑顔だ。
「平気だよ、そもそも入院の原因がぎっくり腰だしね。ぼくは今から帰るから、母さんの部屋に行って話し相手になってやるときっと喜ぶよ。けっこう退屈そうにしていたし」
「おう、じゃあな兄貴」
「うん」
訳知り顔で笑いながら、お兄さんは病院の外へと出ていった。別れ際に長太郎に会釈していたところなんか、本当に芸が細かいと感心してしまった。本当に「亮がいつもお世話になってます」といった仕草だったのだ。
病室で寝ている宍戸さんのお母さんも、事情はすでに聞いているらしい。やはりおれの方を見ながら、
「やっと来たのね、亮」
と言って笑っているのだ。おれは観念して宍戸さんらしく振る舞った。
「母さん、腰の調子は大丈夫なのか」
「ええ、数日きちんと入院すれば退院できるって、お医者さんから保証されたわ。棚の上のもの取ろうとして少し負担をかけすぎたのね、反省してるわ」
そう言うと、母親は訳知り顔で笑いながら言った。にやにやと嫌らしい笑顔だ。
「それより二人、また下らない理由で喧嘩してるんですってね、さっき晶から聞いたわ。本当、子供じゃないんだからさっさと仲直りしちゃいなさいよ」
俺はかっと頭に血が昇るのを感じた。
「母さんが思ってるほど軽いもんじゃねえんだよ」
「どうだかね。どうせまた下らないことに亮が腹をたてて変なことになったんでしょう? お母さん、何年あんたのお母さん務めてると思ってるのよ、それくらい分からないとでも思って? 全く、いい加減大人になりなさいよね」
「あーもううるせえな!」
俺は図星なことを言われて、沸騰するくらい怒鳴った。
「ほんと、仲がいいのか悪いのか、中身はいつまでたっても子供のままなんだから。喧嘩してひねくれるなんて、小学生じゃあるまいし」
母さんはそう言ってからから笑った。かなり楽しそうな笑い声だ。そのあまりの笑い声の大きさに、俺は頭に熱い血が立ちのぼっていくのを感じた。胃が腐って、沸騰した溶岩が吹き出そうだった。
おれの視界に、ふと長太郎の姿がかすめた。何かを言おうとして、俺が不機嫌そうに眉を寄せているのを見て、口を閉ざして三歩下がっているようなかんじだ。別に俺は長太郎に怒っているのではないのに、こいつは自分が悪いことをしてしまったかのようにしゅんとしている。彼はなるべく俺の気分を波立たせないようにと、できるだけ大人しく、大人しくしようとしていて、それがよけいムカツク。彼が目立たないようにしようとしている、ということは実は、非常に目立つ行動なのだ。
俺はそんな長太郎を横目で睨みながら、また顔をしかめた。

後々ふと思ったのだが、これっていつもおれがしていることではなかっただろうか。