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予期せぬ事件がおきたのはその時だった。
その日長太郎は昼までには帰ると言って午前から俺の母親の見舞いに出ていた。なるべく遅くならないようにしますけど、帰ってくるのが遅くなったときは冷蔵庫のなかの麺を炒めて焼きそばでも作って食べていてください、と言われていた。
そして、俺がそろそろ焼きそばでも作って先に昼飯を食べていようかと思い立ったとき、電話のベルが部屋のなかに鳴り響いた。
「もしもし、宍戸さん?」
電話の声は案の定長太郎だった。なんだ、遅くなるとかそういう連絡はもっと早めに言えよな、と俺は空腹でイライラしながら思っていた。
だいたい、どうして入院しているのは俺の母親なのに俺が見舞いに行くのを止めたのか、その時点で俺は結構腹を立てていたのだ。
あのとき長太郎は、宍戸さんは平日のお仕事で疲れてますから、おれがお見舞いに行っている間にゆっくり休んでいてください、だなんて言ってきやがったのだ。あいつ、腫れ物をさわるように俺を気遣ってきやがって。
そういう細かくむかつくことを思い出し不機嫌に受話器を握る俺に、予想だにしなかったことを言い放ったのは、その時だった。
「あの、おれはこれからしばらく旅行に出ますので数日家には戻りません」
コンビニ寄ってから帰ります、みたいな軽い口調で言われたものだから、俺はひどく驚いた。
「はあ? なんでいきなり旅行だなんて。誰か一緒に行くやつとかいンのかよ」
俺は思わず逼迫した声で叫ぶ。電話の通知番号が表示されているディスプレイをちらと見ると、なぜかかけてきたところが公衆電話だった。
「いえ、一人旅ですけど」
彼は本当に、なんでもないことのように言う。その声があまりにもなんでもないような言い方だったので、危うく俺までなんでもないことのように流されそうになった。
違う違う。長太郎の旅行がなんでもないことのわけがない。こいつは、俺が短期の出張のときですら未練たらたらな顔をして不平をもらしたり、旅先で浮気とかしたら承知しませんからね、とか嫉妬深そうな瞳で言ったり、頻繁に電話をよこしてきたり、頻繁にメールをよこしてきたり、少しでも距離が離れるととたんに不安になるやつなのに、そんな長太郎が当日まで何も言わないで突然旅行に出かけるだなんてどう考えてもおかしい。
そもそも、彼は旅行用の支度もなにもしないで家を出ていくところを俺は見ていた。手にはバッグも持たないで、ポケットに財布を入れてそれっきりだ。数日家を空ける人が、そんな軽装備で家を出るだろうか。
「突然すいませんね。それじゃあ、しばらく家を空けます」
「待てよ、どうしてそんな急に」
「それじゃあ」
突然電話は切れた。俺の耳の奥で、あのむなしい電子音がいつまでもこだましていた。
考えられる理由としては、一つだけあった。と言うよりこの状況で考え得ることがあるとしたら一つしかないだろう。
再度長太郎の携帯電話に電話をかけてみたが、電源が切られているらしく、何度かけてもつながらない。彼の知人に何人かあたってみたが、彼が行くところを知っている人は一人もいない。わずかな手がかりも、なにも、かすりもしない。
「鳳のいるところって言ったら、そりゃ宍戸のとこだろ?」
からから笑いながら、向日は電話の向こうで呑気に言っていた。今回はそうでないから困っているのだ。
そんな、まさかと俺は青くなる。恐怖が喉の奥と背中にべったり張りついて、まったく離れない。だが、きっとそれくらいしか可能性はない。誰も、何も長太郎の消息を知るものはいない。そして、かけてきたところが公衆電話。彼は自分の携帯電話を持っているのに、それを使わずにかけてきたのだ。公衆電話。それが何よりの証拠だった。
俺は電話帳を開き、一番近いエリアから順番に、病院へと電話をかけてみることにした。
質問するときは質問のしかたに気をつけなければならない。なぜなら今は病院の個人情報保護がかなり厳しくなっているからだ。
「すいません、そちらに入院している鳳長太郎さんの病室番号を教えていただけませんか」
そこに長太郎が入院しているか、といったふうには質問しない。そうすると、質問の返答を断られる可能性があるからだ。今は本当に入院患者の情報に関して医療機関は敏感になっているのだと、以前聞いたことがある。
受話器から、電話の向こうの看護士がにっこり首をかしげる音が聞こえた。どうやらこの病院にはいないらしい。俺は間違えましたと謝罪して受話器を置く。こうして、しらみつぶしに調べていくしかない。都内には大小さまざまな、数多くの病院が密集している。どうして長太郎がどこかの病院にいるだなんて思うのか、説明はつかない。だが、俺には妙な確信があった。
長太郎の身になにかあったのだ、と。
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